高市 早苗

高市 早苗
2007流行情報をあなたにお伝えします!

高市 早苗 0

高市 早苗  

本名・山本 早苗は、平成期の日本の政治家。自由民主党所属の衆議院議員。

高市 早苗の夫は、自民党衆議院議員の山本拓。

奈良県立畝傍高等学校を経て、1984年に神戸大学経営学部経営学科を卒業。

大学時代はヘビーメタルバンドでドラムスを担当していた。大学卒業後、松下政経塾(第5期)に入塾。同期に伊藤達也がいる。アメリカに渡り民主党のパット・シュローダー下院議員の個人事務所でフェロー(実務経験が少ないので無給の見習い的な存在)として短期間の居候をする。
1989年に帰国し、講演や執筆活動を通じて、マスコミに注目され始めた。
1990年に日本経済短期大学専任教員、1992年には関西ハイビジョン・コンソーシアムを設立し会長に就任するなど、精力的に活動。同年、参議院議員選挙に奈良選挙区から無所属で立候補するが落選する。この選挙では、当初、自民党奈良県連に候補者として名乗りを上げるが、自民党公認候補が服部三男雄に決まり、二世の服部が公認となったことに強い不満を抱く。
1993年、第40回衆議院議員総選挙で旧奈良全県区から無所属で立候補し、トップで初当選を飾る。
1994年に自民党の政策集団「リベラルズ」に参加。リベラルズは、自民党を離党した柿沢弘治を党首とする自由党となり、羽田孜が首班の非自民連立政権に後、同年7月27日自由改革連合結成〜同年12月10日新進党結党大会に参加する。この柿沢自由党〜自由改革連合〜新進党には、後に高市と結婚する山本拓も参加していた。
1996年10月、第41回衆議院議員総選挙では新進党公認で立候補し、当選。
この選挙で新進党は敗北し、選挙後、自民党幹事長の加藤紘一と橋本派の実力者で党幹事長代理の野中広務からの引き抜きに応じ、11月5日に高市は新進党を離党した。12月27日、自民党に入党。新進党の公認候補として反自民票を集めての当選であっただけに、2ヵ月で敵対する政党に移るという、節操のない日和見的行為は有権者に対する裏切りとの批判が多く、当時は新進党側から議員辞職せよとの声もあがった。
自民党では清和政策研究会(三塚派 - 森派)に所属し、通産政務次官や、衆議院文部科学委員長などを歴任する。
第42回衆議院議員総選挙では、自民党の比例近畿ブロック単独上位に搭載され、三選目。当選後、下村博文、世耕弘成、山本一太らと共に「勝手補佐官」を自称し、テレビにも積極的に出演。2002年には小泉改造内閣で経済産業副大臣に就任する。第43回衆議院議員総選挙では、比例復活も果たせずに落選。自民党に移ってから初の選挙区からの立候補だったが、1996年の選挙後の行動が結果に響いたことは明らかだった。この選挙では森派所属の前職議員で、落選したのは高市ひとりだけであった。
2004年、自民党衆議院議員の山本拓と結婚。
近畿大学教授に就任。
2005年9月、第44回衆議院議員総選挙で郵政民営化法案に反対した滝実に対する対抗馬として、選挙区であった奈良1区から奈良2区に国替えして立候補し、当選。
国政に返り咲きを果たす。
安倍晋三の「再チャレンジ推進委員会」を支援する「再チャレンジ推進議員連盟」会員。
特殊指定に関する議員立法検討チーム座長で特殊指定見直しに反対している。業界団体である日販協政治連盟から政治献金を受けている。
2006年9月、安部晋三内閣で内閣府特命担当大臣として入閣。
沖縄及び北方対策、科学技術政策、イノベーション、少子化・男女共同参画、食品安全を担当。


高市 早苗の人物像
満州事変や以後の戦争を「自衛のための戦争だった」と主張し、田原総一朗から「あなたのような下品で無知な人にバッジつけて靖国のことを語ってもらいたくない」と批判をされたことがある。


靖国神社のA級戦犯の分祀、国立追悼施設の建設に反対している。(会長・中川昭一)に所属 夫婦別姓反対派の急先鋒であり、夫婦別姓推進派の野田聖子と激しく対立、野田聖子に対案を出すように通称を使用すればという案を提唱する。
本人は結婚後、夫の姓を名乗るか悩んだ末、旧姓高市を通称としている。スタンスをとっており、男女共同参画などを「急進的な女性優遇措置」として反対している。
好悪が分かれる議員の一人。保守系政治家が選挙時に有権者の前で土下座することを侮蔑していた。
選挙の時、後援会長に「土下座するのが当たり前」と促され、感極まった弟が土下座をすると涙ぐむ愚民の万雷の拍手の中、姉弟土下座をした。描き方に特徴がみられる。


主な著書アズ・ア・タックスペイヤー ―政治家よ、こちらに顔を向けなさい― アメリカ大統領の権力のすべて代議士たち サッチャーからの提言・新しい日本 高市早苗のぶっとび永田町日記 21世紀日本の繁栄譜