中日ドラゴンズ優勝
中日ドラゴンズは、プロ野球球団でセントラル・リーグの球団のひとつ。在籍選手については中日ドラゴンズの選手一覧参照。
中日ドラゴンズ チーム名 中日ドラゴンズ
加盟団体 セントラル・リーグ(1軍)、ウエスタン・リーグ(2軍) 創設年度 1936年
チーム名の遍歴 名古屋軍(1936年〜1943年)→産業軍(1944年)→中部日本軍(1946年)→中部日本ドラゴンズ(1947年)→中日ドラゴンズ(1948年〜1950年)→名古屋ドラゴンズ(1951年〜1953年)→中日ドラゴンズ(1954年〜) フランチャイズ 愛知県名古屋市
本拠地 ナゴヤドーム(1軍)、ナゴヤ球場(2軍) 収容人員 38414人(ナゴヤドーム) オーナー 白井文吾
親会社 中日新聞社
監督 落合博満
タイトル リーグ戦:6回、日本シリーズ:1回 (優勝年度) (リーグ戦)1954、1974、1982、1988、1999、2004、2006(日本シリーズ)1954
中日ドラゴンズ球団の歴史
1リーグ時代
1936年、新愛知新聞社を親会社として名古屋軍(なごやぐん)が結成。
河野安通志を総監督(GM)に迎え、監督は池田豊が就任。白系アメリカ人で捕手のハリス、名手・芳賀直一、日系外国人の高橋吉雄、主将の桝嘉一、スローボーラー・森井茂らが初期メンバー。大東京軍を結成。日本各地に球団を結成、大日本野球連盟を組織し、リーグを作ろうとしたが失敗。リーグ(つまり現行のプロ野球リーグの前身)に加わった。大日本野球連盟構想の名残が見られる。河野が球団を去りイーグルスを結成すると、中根、ハリス、高橋らがを追い、池田監督も混乱を嫌い辞職。
後任監督は桝嘉一。主力が抜けたことにより、チームは低迷。戦前職業野球において、大沢清、西沢道夫、松尾幸造、村松幸雄など好成績を残す選手が隙無く台頭したが、チームの総力は巨人・阪神に及ばず、優勝は遠かった。
新聞統廃合令により親会社の新愛知新聞社と名古屋新聞社(旧:名古屋金鯱軍親会社)が統合され中部日本新聞として新設。
本社人件費の増大により声が挙がり、球団への投入資金は大幅減少。中部日本新聞取締役の大島一郎(旧新愛知新聞の創業家出身)が個人的に出資しシーズンを終えることはできたが、財力には限界があり、赤嶺昌志が球団・選手を一手に引き受け、球団を傘下に入れ選手を同工業に就職させた。球団名を産業(さんぎょう)に改称、選手は工場で勤労奉仕を傍ら試合を行った。他球団に例外なく多くが兵役に「人間の翼 最後のキャッチボール」で有名な石丸進一を始め名選手が戦禍に散った。中部日本新聞が経営に復帰。
チーム名を中部日本(ちゅうぶにほん)として再出発。ニックネーム導入にあたり中部日本ドラゴンズに改称。
オーナーだった杉山虎之助(中部日本新聞社社長)は自分の名前から「タイガース」にしたかったようだが、既に大阪タイガースが存在していたので、止むを得なくオーナーの干支であった辰からドラゴンズと名付けた。大阪タイガースが存在しなかったら、中日タイガースになっていた可能性が高い。服部受弘が野手に投手に大車輪の働きをみせ戦後すぐチームを支えた。オフに赤嶺が退団すると、赤嶺を慕う加藤正二、古川清蔵、金山次郎、小鶴誠ら11選手が退団、藤本英雄も読売(巨人)に復帰し、チーム力が低下。退団した「赤嶺一派」は各球団を渡り歩き、「赤嶺旋風」と言われる混乱を巻き起こした。 1948年に中日ドラゴンズに改称。
オフに木造の中日球場が完成。翌シーズンより本拠地に。 1949年、天知俊一が監督に就任、杉下茂が入団。
西沢道夫が打者として中日復帰。同年シーズンオフの2リーグ分裂騒動でセ・リーグに加盟。
セ・リーグ加盟後
1951年2月6日より名古屋鉄道が経営参加し名古屋ドラゴンズと改名。
8月19日に中日球場が試合中の火災により全焼。オフに鉄筋コンクリートで再建。中日ドラゴンズに名前を戻した。
西沢、杉山悟、杉下茂、石川克彦らの活躍で初優勝。
日本シリーズでも西鉄ライオンズを破り日本一。 1959年、伊勢湾台風による中日球場水没で一部を他会場に振り替える。
1961年、濃人渉監督が就任。
ブリヂストンタイヤより入団した新人・権藤博の活躍により読売に1ゲーム差と迫るが惜しくも2位。 1962年、プロ野球でドン・ニューカム、ラリー・ドビーを入団させるが、3位。
西沢監督のもとで3年連続2位と健闘するが、惜しくも優勝には届かなかった。
杉下監督を挟み、1969年から元読売の水原茂監督が就任するが4位、5位、2位と伸びなかった。
1972年から与那嶺要ヘッドコーチが監督に昇格。
1974年、高木守道、星野仙一、松本幸行、トーマス・マーチン、谷沢健一らが活躍。読売のV10を阻止しリーグ優勝を果たした。
5位、3位、6位と成績が振るわず1980年限りで辞任。この年を高木が引退。
近藤・山内監督時代
1981年、近藤貞雄監督が就任。
1982年にはリーグ優勝。近藤は星野・木俣達彦などのベテランに代わり、平野謙、中尾孝義、上川誠二らの若手を登用。野手では宇野勝、谷沢ら、先発には郭源治、都裕次郎ら、リリーフには牛島和彦の活躍があった。野球と、投手分業制を標榜する継投を駆使する采配を見せた。19引き分けを記録したため、シーズン終盤、まだ2位だったのに優勝マジックが点灯。
10月18日、横浜スタジアムの大洋最終戦は、大洋が勝てば読売優勝、中日が勝てば中日優勝という天王山だったが、小松辰雄が完封勝利を見事に優勝。日本シリーズは西武に2勝4敗で敗退。この年限りで星野・木俣が引退。1983年に5位に落ち近藤は退任。 1984年、山内一弘監督が就任。
初年度は2位となったが、その後は1985年・1986年と2年連続5位。山内は1986年シーズン途中で休養に追い込まれ、シーズン終了まで高木ヘッドコーチが監督を代行した。星野監督が就任。牛島、上川、桑田茂、平沼定晴との4対1トレードにより、ロッテから2年連続三冠王の落合博満を獲得する。このトレードに際しては、牛島が星野自ら説得にあたった。享栄高校から、近藤真一がドラフト1位で入団する。
星野・高木監督時代
1987年、ロサンゼルス・ドジャースとの提携によりユニフォームをドジャース風に変更。
ルーキー近藤が、8月9日の読売戦で、プロ初登板初先発ノーヒットノーランという大偉業を達成。ペナントレースも、不振を払拭し、5月には一時的に首位に立つなど、最終的には2位を確保する。シーズンオフに、大島、平野を放出。主将、立浪和義がドラフト1位で入団。 1988年、4月終了時点で首位広島に8ゲーム差を下位。
7月8日には6連敗を喫し29勝31敗2分で借金2。翌7月9日から、驚異の大進撃が始まる。連敗したのは2連敗を50勝15敗3分という凄まじさで、当時を覚えているファンが異口同音に「負けた記憶がない」と言うほどである。10月7日、文句なしで6年振りの優勝。中日から生え抜き監督での優勝は史上初。小野和幸が最多勝に輝き、小松とともに先発陣を牽引。リリーフ・郭源治が44セーブポイントでMVPに輝き、この年の最大8ゲーム差からの逆転優勝は、逆転優勝最大ゲーム差記録であった。日本シリーズでは西武に1勝4敗と敗退。本来は優勝パレードが予定されていたが体調悪化により自粛に至った。星野監督は1991年を勇退した。 1992年、高木監督が就任。
最下位に沈むも、成績は60勝70敗で、優勝したヤクルトが69勝61敗と、離れてかった。後半戦で中日と大洋が勝ち越したことも手伝い、この年のセ・リーグは6球団全てが60勝台という大混戦となった。 1993年は、今中慎二と山本昌広のダブル左腕エースが大活躍。
両者とも17勝で最多勝に輝くと今中は沢村賞、山本はタイトルを獲得。ペナントレースは、前半戦でヤクルトが2位に大差をつけて独走していたが、後半戦開始直後から中日が猛烈な勢いで走り始め、9月1日、遂に首位に立つ。その後はヤクルトとのデッドヒートとなったが、最後はかわされ涙を飲んだ。シーズン終了後、落合が読売にFA移籍。 1994年はシーズン中盤まで首位読売に食らいついた8月18日からの8連敗で完全に脱落したかに思われ、9月に入ると、この年に任期が切れる高木監督の後任として名が報じられるなど、チームは内外で万事窮したかに見えた。
9月20日からの9連勝を始めとする猛烈な追い上げを見せて首位の読売に並び、10月8日、史上初の最終戦同率首位決戦(10.8決戦)となった。試合では、読売に、落合、松井の本塁打に当時の3本柱・槙原、斎藤、桑田のリレーでかわされ、苦杯を喫した。首位打者がアロンゾ・パウエル、本塁打と打点王に大豊泰昭、最多勝に山本昌、最優秀防御率が郭源治と、投打のタイトルを総なめした。優勝を最後まで争っての2位という好成績により高木監督が続投。
不振を極め、結局シーズン途中に辞任。徳武定祐ヘッドコーチ、次いで島野育夫2軍監督が代行を務めた。星野監督が復帰。
ナゴヤ球場最終シーズンとなったこの年には、韓国ヘテ・タイガースから宣銅烈を獲得。抑えの切り札として期待されるも、野球に慣れるのに時間が不振に終わる。この年は年であったが、読売の優勝マジックが1になっても中日はしぶとく勝ち続け、9月24日から6連勝。6連勝目のナゴヤ球場での広島戦はファンの間で名試合と称されている。中日が負ければ読売優勝という状況下、7回1点差に迫られてなお無死満塁という絶対的危機でエース今中慎二が救援のマウンドに立つ。格闘技会場のような「今中コール」の中、今中は金本知憲の犠牲フライ1本でこのピンチを試合は延長戦に突入した。パウエルのタイムリーヒットによりサヨナラ勝利。10月6日ナゴヤ球場の最終戦における読売との直接対決に持ち込んだ。10月6日、いわゆる『10.6』の大決戦が行われる。中日はこの試合を含めて、残り3試合を全勝すれば読売とのプレーオフというギリギリのところであったが、惜しくも敗れ去り、優勝はならなかった。この年は山崎武司が本塁打王になるなど大豊、パウエルを主軸とした打線が活躍を“強竜(恐竜)打線”として恐れられた。中日ビル
ナゴヤドーム(ホームスタジアム)ナゴヤドーム移転
1997年、ナゴヤドームがオープン。
本拠地を移転し一歩を踏み出す。ナゴヤ球場から一転、広いナゴヤドームに野手陣の慣れが追いつかず、最下位に終わる。この年は宣銅烈が39セーブポイントを挙げ、山本昌が最多勝に輝くなど投手陣は奮闘を見せた。オフには野球を目指して改革が行なわれた。守備力と機動力を推進するため、パウエルを解雇、阪神へ矢野輝弘・大豊を放出、交換で関川浩一・久慈照嘉を獲得。韓国ヘテから李鍾範を獲得。明治大から星野の後輩である川上憲伸がドラフト1位で入団した。 1998年にはその改革が実を結び、走力を生かして得た1点を強力な投手陣で守る野球を確立。
前半戦まではいたが、後半戦から走り始め、独走していた横浜をハイペースで追走。8月27日には1ゲーム差に迫った。終盤の横浜戦7連敗が響き、38年ぶりの優勝を許した。投手コーチに宮田征典を招聘しテコ入れ、その甲斐あって野口茂樹が川上憲伸が新人王を獲得した。日本生命から福留孝介がドラフト1位で入団。本命に期待通りに開幕から11連勝。
投手陣は新たに招聘された山田久志投手コーチの指導で充実し、野口、川上、山本昌に武田一浩の先発陣に加え、この年新人の岩瀬仁紀が1年目から65試合に登板して鉄人振りを発揮し、サムソン・リー、落合英二らとともにセットアッパーとなる。ストッパーの宣も好調で、投手王国を誇った。この年は大型連勝が多く、7月2日から8連勝したのに加え、シーズン終盤も9月21日から8連勝して一気にゴールテープを見事に優勝。神宮球場で優勝が決まった9月30日には、ナゴヤドームも超満員とリーグ優勝を果たした。前半戦を首位で折り返しての優勝は球団史上初。ナゴヤドーム移転後初の日本シリーズでは福岡ダイエーホークス投手陣を打ち崩せず、欠場が響いたのか1勝4敗で胴上げを許した。 2000年、2位は確保するものの、投打ともに前年の面影はなく、最後は9月24日、東京ドームでの読売戦において、4-0でエディ・ギャラードが江藤に満塁弾、二岡にサヨナラ弾を浴びて優勝を決められてしまった。
2001年、4年振りのBクラスに星野監督が辞任。
この年から、井端弘和がレギュラーに定着。
山田・落合監督時代
2002年、谷繁元信が横浜からFA移籍。
福留が三冠王を阻止して首位打者のタイトルを獲得する。この頃、荒木雅博がレギュラーに定着。 2003年まで山田監督が指揮を執る。
7月5日、立浪和義が2000本安打達成。一度入団契約を交わしながら突如翻意し、メジャーリーグ・レッドソックスの入団を希望するケビン・ミラーとの間に騒動があった。成績は3位、2位とまずまずだったが、山内一弘以来となる完全な外様(現役時代に中日に籍を置いた事がない者)だったことや、生真面目な性格から軋轢がといわれる。2003年9月9日、優勝した阪神タイガース相手に善戦していた関わらず休養させられたことがファンの物議を醸した。この年は朝倉健太、川上憲伸がケガで離脱し、ローテーションを守ったのは山本昌一人だった。佐々木恭介ヘッドコーチが監督を代行。最終的に阪神には勝ち越し、完全優勝は阻止した。4番打者である落合監督が就任。
星野カラーを一新し、見事就任1年目でリーグ優勝を果たす。主力は元より控え選手も数多く起用し、守り勝つ野球を見せた。日本シリーズでは、本拠地ナゴヤドームで1勝3敗と勝ち越せなかったことなどが災いし、西武に3勝4敗で惜しくも日本一は果たせなかった。10月30日に名古屋市内で優勝パレードでは16万人を動員した。
ドラフトでは石井裕也をはじめ即戦力となりうる新人を確保。セ・パ交流戦で15勝21敗と苦戦を強いられる。オールスター前後の11連勝など後半戦には粘り強さを阪神に2度にわたって0.5ゲーム差まで迫った9月に入り失速、連覇を逃した。“ぶっちぎり”で優勝することを落合監督が公言、52年ぶりの日本一を狙う。
宿舎を第2次星野政権から使用していた赤坂プリンスホテルからホテルニューオータニへ変更することが決定した。阪神も同じ宿舎を使用しており、阪神とは巨人戦と神宮球場でのヤクルト戦で互いが日程的に重なることがあり、選手同士が同じ日に同じホテルに宿泊するという好ましくない事態がしばしば起きていたということと、ヤクルト主催の千葉マリンスタジアムでの地方試合に開始により公式戦が始まったことで遠征がニューオータニと併用して宿舎契約すれば宿泊料金が割安になるというメリットがあったための変更とされているが、球団による星野色一掃のためという理由ものではとささやかれている。 2006年10月10日、マジック1で迎えた東京ドームの読売戦に9-3で勝利。
勝利投手・胴上げ投手は岩瀬仁紀。最後は2塁ベースを踏んで優勝を決定させた。
落合監督の見えぬ偉業このことはメディアではほとんど報じられていないのだが、2003年以前の中日は優勝してから次に優勝するまでに最短でも6年(1982年→1988年)かかっていた。
落合監督が監督就任1年目で優勝したため中日球団が持ってこの最短記録を5年(1999年→2004年)に縮めることができた。落合監督の目に見えぬ偉業とも言えよう。連覇こそ逃したものの、2006年の優勝によってこの記録を2年にまで縮めた。落合監督以前に連続任期中にチームを2回以上優勝に導いた監督はまだかったが(星野仙一は中日監督として合計2回優勝に導いているが、第一次政権(〜1991年)と第二次政権(1996年〜)にそれぞれ1回ずつであるのでこれに該当しない)、2006年の優勝によりこの悪しき伝統にも終止符を打った。
中日ドラゴンズ チーム名 中日ドラゴンズ
加盟団体 セントラル・リーグ(1軍)、ウエスタン・リーグ(2軍) 創設年度 1936年
チーム名の遍歴 名古屋軍(1936年〜1943年)→産業軍(1944年)→中部日本軍(1946年)→中部日本ドラゴンズ(1947年)→中日ドラゴンズ(1948年〜1950年)→名古屋ドラゴンズ(1951年〜1953年)→中日ドラゴンズ(1954年〜) フランチャイズ 愛知県名古屋市
本拠地 ナゴヤドーム(1軍)、ナゴヤ球場(2軍) 収容人員 38414人(ナゴヤドーム) オーナー 白井文吾
親会社 中日新聞社
監督 落合博満
タイトル リーグ戦:6回、日本シリーズ:1回 (優勝年度) (リーグ戦)1954、1974、1982、1988、1999、2004、2006(日本シリーズ)1954
中日ドラゴンズ球団の歴史
1リーグ時代
1936年、新愛知新聞社を親会社として名古屋軍(なごやぐん)が結成。
河野安通志を総監督(GM)に迎え、監督は池田豊が就任。白系アメリカ人で捕手のハリス、名手・芳賀直一、日系外国人の高橋吉雄、主将の桝嘉一、スローボーラー・森井茂らが初期メンバー。大東京軍を結成。日本各地に球団を結成、大日本野球連盟を組織し、リーグを作ろうとしたが失敗。リーグ(つまり現行のプロ野球リーグの前身)に加わった。大日本野球連盟構想の名残が見られる。河野が球団を去りイーグルスを結成すると、中根、ハリス、高橋らがを追い、池田監督も混乱を嫌い辞職。
後任監督は桝嘉一。主力が抜けたことにより、チームは低迷。戦前職業野球において、大沢清、西沢道夫、松尾幸造、村松幸雄など好成績を残す選手が隙無く台頭したが、チームの総力は巨人・阪神に及ばず、優勝は遠かった。
新聞統廃合令により親会社の新愛知新聞社と名古屋新聞社(旧:名古屋金鯱軍親会社)が統合され中部日本新聞として新設。
本社人件費の増大により声が挙がり、球団への投入資金は大幅減少。中部日本新聞取締役の大島一郎(旧新愛知新聞の創業家出身)が個人的に出資しシーズンを終えることはできたが、財力には限界があり、赤嶺昌志が球団・選手を一手に引き受け、球団を傘下に入れ選手を同工業に就職させた。球団名を産業(さんぎょう)に改称、選手は工場で勤労奉仕を傍ら試合を行った。他球団に例外なく多くが兵役に「人間の翼 最後のキャッチボール」で有名な石丸進一を始め名選手が戦禍に散った。中部日本新聞が経営に復帰。
チーム名を中部日本(ちゅうぶにほん)として再出発。ニックネーム導入にあたり中部日本ドラゴンズに改称。
オーナーだった杉山虎之助(中部日本新聞社社長)は自分の名前から「タイガース」にしたかったようだが、既に大阪タイガースが存在していたので、止むを得なくオーナーの干支であった辰からドラゴンズと名付けた。大阪タイガースが存在しなかったら、中日タイガースになっていた可能性が高い。服部受弘が野手に投手に大車輪の働きをみせ戦後すぐチームを支えた。オフに赤嶺が退団すると、赤嶺を慕う加藤正二、古川清蔵、金山次郎、小鶴誠ら11選手が退団、藤本英雄も読売(巨人)に復帰し、チーム力が低下。退団した「赤嶺一派」は各球団を渡り歩き、「赤嶺旋風」と言われる混乱を巻き起こした。 1948年に中日ドラゴンズに改称。
オフに木造の中日球場が完成。翌シーズンより本拠地に。 1949年、天知俊一が監督に就任、杉下茂が入団。
西沢道夫が打者として中日復帰。同年シーズンオフの2リーグ分裂騒動でセ・リーグに加盟。
セ・リーグ加盟後
1951年2月6日より名古屋鉄道が経営参加し名古屋ドラゴンズと改名。
8月19日に中日球場が試合中の火災により全焼。オフに鉄筋コンクリートで再建。中日ドラゴンズに名前を戻した。
西沢、杉山悟、杉下茂、石川克彦らの活躍で初優勝。
日本シリーズでも西鉄ライオンズを破り日本一。 1959年、伊勢湾台風による中日球場水没で一部を他会場に振り替える。
1961年、濃人渉監督が就任。
ブリヂストンタイヤより入団した新人・権藤博の活躍により読売に1ゲーム差と迫るが惜しくも2位。 1962年、プロ野球でドン・ニューカム、ラリー・ドビーを入団させるが、3位。
西沢監督のもとで3年連続2位と健闘するが、惜しくも優勝には届かなかった。
杉下監督を挟み、1969年から元読売の水原茂監督が就任するが4位、5位、2位と伸びなかった。
1972年から与那嶺要ヘッドコーチが監督に昇格。
1974年、高木守道、星野仙一、松本幸行、トーマス・マーチン、谷沢健一らが活躍。読売のV10を阻止しリーグ優勝を果たした。
5位、3位、6位と成績が振るわず1980年限りで辞任。この年を高木が引退。
近藤・山内監督時代
1981年、近藤貞雄監督が就任。
1982年にはリーグ優勝。近藤は星野・木俣達彦などのベテランに代わり、平野謙、中尾孝義、上川誠二らの若手を登用。野手では宇野勝、谷沢ら、先発には郭源治、都裕次郎ら、リリーフには牛島和彦の活躍があった。野球と、投手分業制を標榜する継投を駆使する采配を見せた。19引き分けを記録したため、シーズン終盤、まだ2位だったのに優勝マジックが点灯。
10月18日、横浜スタジアムの大洋最終戦は、大洋が勝てば読売優勝、中日が勝てば中日優勝という天王山だったが、小松辰雄が完封勝利を見事に優勝。日本シリーズは西武に2勝4敗で敗退。この年限りで星野・木俣が引退。1983年に5位に落ち近藤は退任。 1984年、山内一弘監督が就任。
初年度は2位となったが、その後は1985年・1986年と2年連続5位。山内は1986年シーズン途中で休養に追い込まれ、シーズン終了まで高木ヘッドコーチが監督を代行した。星野監督が就任。牛島、上川、桑田茂、平沼定晴との4対1トレードにより、ロッテから2年連続三冠王の落合博満を獲得する。このトレードに際しては、牛島が星野自ら説得にあたった。享栄高校から、近藤真一がドラフト1位で入団する。
星野・高木監督時代
1987年、ロサンゼルス・ドジャースとの提携によりユニフォームをドジャース風に変更。
ルーキー近藤が、8月9日の読売戦で、プロ初登板初先発ノーヒットノーランという大偉業を達成。ペナントレースも、不振を払拭し、5月には一時的に首位に立つなど、最終的には2位を確保する。シーズンオフに、大島、平野を放出。主将、立浪和義がドラフト1位で入団。 1988年、4月終了時点で首位広島に8ゲーム差を下位。
7月8日には6連敗を喫し29勝31敗2分で借金2。翌7月9日から、驚異の大進撃が始まる。連敗したのは2連敗を50勝15敗3分という凄まじさで、当時を覚えているファンが異口同音に「負けた記憶がない」と言うほどである。10月7日、文句なしで6年振りの優勝。中日から生え抜き監督での優勝は史上初。小野和幸が最多勝に輝き、小松とともに先発陣を牽引。リリーフ・郭源治が44セーブポイントでMVPに輝き、この年の最大8ゲーム差からの逆転優勝は、逆転優勝最大ゲーム差記録であった。日本シリーズでは西武に1勝4敗と敗退。本来は優勝パレードが予定されていたが体調悪化により自粛に至った。星野監督は1991年を勇退した。 1992年、高木監督が就任。
最下位に沈むも、成績は60勝70敗で、優勝したヤクルトが69勝61敗と、離れてかった。後半戦で中日と大洋が勝ち越したことも手伝い、この年のセ・リーグは6球団全てが60勝台という大混戦となった。 1993年は、今中慎二と山本昌広のダブル左腕エースが大活躍。
両者とも17勝で最多勝に輝くと今中は沢村賞、山本はタイトルを獲得。ペナントレースは、前半戦でヤクルトが2位に大差をつけて独走していたが、後半戦開始直後から中日が猛烈な勢いで走り始め、9月1日、遂に首位に立つ。その後はヤクルトとのデッドヒートとなったが、最後はかわされ涙を飲んだ。シーズン終了後、落合が読売にFA移籍。 1994年はシーズン中盤まで首位読売に食らいついた8月18日からの8連敗で完全に脱落したかに思われ、9月に入ると、この年に任期が切れる高木監督の後任として名が報じられるなど、チームは内外で万事窮したかに見えた。
9月20日からの9連勝を始めとする猛烈な追い上げを見せて首位の読売に並び、10月8日、史上初の最終戦同率首位決戦(10.8決戦)となった。試合では、読売に、落合、松井の本塁打に当時の3本柱・槙原、斎藤、桑田のリレーでかわされ、苦杯を喫した。首位打者がアロンゾ・パウエル、本塁打と打点王に大豊泰昭、最多勝に山本昌、最優秀防御率が郭源治と、投打のタイトルを総なめした。優勝を最後まで争っての2位という好成績により高木監督が続投。
不振を極め、結局シーズン途中に辞任。徳武定祐ヘッドコーチ、次いで島野育夫2軍監督が代行を務めた。星野監督が復帰。
ナゴヤ球場最終シーズンとなったこの年には、韓国ヘテ・タイガースから宣銅烈を獲得。抑えの切り札として期待されるも、野球に慣れるのに時間が不振に終わる。この年は年であったが、読売の優勝マジックが1になっても中日はしぶとく勝ち続け、9月24日から6連勝。6連勝目のナゴヤ球場での広島戦はファンの間で名試合と称されている。中日が負ければ読売優勝という状況下、7回1点差に迫られてなお無死満塁という絶対的危機でエース今中慎二が救援のマウンドに立つ。格闘技会場のような「今中コール」の中、今中は金本知憲の犠牲フライ1本でこのピンチを試合は延長戦に突入した。パウエルのタイムリーヒットによりサヨナラ勝利。10月6日ナゴヤ球場の最終戦における読売との直接対決に持ち込んだ。10月6日、いわゆる『10.6』の大決戦が行われる。中日はこの試合を含めて、残り3試合を全勝すれば読売とのプレーオフというギリギリのところであったが、惜しくも敗れ去り、優勝はならなかった。この年は山崎武司が本塁打王になるなど大豊、パウエルを主軸とした打線が活躍を“強竜(恐竜)打線”として恐れられた。中日ビル
ナゴヤドーム(ホームスタジアム)ナゴヤドーム移転
1997年、ナゴヤドームがオープン。
本拠地を移転し一歩を踏み出す。ナゴヤ球場から一転、広いナゴヤドームに野手陣の慣れが追いつかず、最下位に終わる。この年は宣銅烈が39セーブポイントを挙げ、山本昌が最多勝に輝くなど投手陣は奮闘を見せた。オフには野球を目指して改革が行なわれた。守備力と機動力を推進するため、パウエルを解雇、阪神へ矢野輝弘・大豊を放出、交換で関川浩一・久慈照嘉を獲得。韓国ヘテから李鍾範を獲得。明治大から星野の後輩である川上憲伸がドラフト1位で入団した。 1998年にはその改革が実を結び、走力を生かして得た1点を強力な投手陣で守る野球を確立。
前半戦まではいたが、後半戦から走り始め、独走していた横浜をハイペースで追走。8月27日には1ゲーム差に迫った。終盤の横浜戦7連敗が響き、38年ぶりの優勝を許した。投手コーチに宮田征典を招聘しテコ入れ、その甲斐あって野口茂樹が川上憲伸が新人王を獲得した。日本生命から福留孝介がドラフト1位で入団。本命に期待通りに開幕から11連勝。
投手陣は新たに招聘された山田久志投手コーチの指導で充実し、野口、川上、山本昌に武田一浩の先発陣に加え、この年新人の岩瀬仁紀が1年目から65試合に登板して鉄人振りを発揮し、サムソン・リー、落合英二らとともにセットアッパーとなる。ストッパーの宣も好調で、投手王国を誇った。この年は大型連勝が多く、7月2日から8連勝したのに加え、シーズン終盤も9月21日から8連勝して一気にゴールテープを見事に優勝。神宮球場で優勝が決まった9月30日には、ナゴヤドームも超満員とリーグ優勝を果たした。前半戦を首位で折り返しての優勝は球団史上初。ナゴヤドーム移転後初の日本シリーズでは福岡ダイエーホークス投手陣を打ち崩せず、欠場が響いたのか1勝4敗で胴上げを許した。 2000年、2位は確保するものの、投打ともに前年の面影はなく、最後は9月24日、東京ドームでの読売戦において、4-0でエディ・ギャラードが江藤に満塁弾、二岡にサヨナラ弾を浴びて優勝を決められてしまった。
2001年、4年振りのBクラスに星野監督が辞任。
この年から、井端弘和がレギュラーに定着。
山田・落合監督時代
2002年、谷繁元信が横浜からFA移籍。
福留が三冠王を阻止して首位打者のタイトルを獲得する。この頃、荒木雅博がレギュラーに定着。 2003年まで山田監督が指揮を執る。
7月5日、立浪和義が2000本安打達成。一度入団契約を交わしながら突如翻意し、メジャーリーグ・レッドソックスの入団を希望するケビン・ミラーとの間に騒動があった。成績は3位、2位とまずまずだったが、山内一弘以来となる完全な外様(現役時代に中日に籍を置いた事がない者)だったことや、生真面目な性格から軋轢がといわれる。2003年9月9日、優勝した阪神タイガース相手に善戦していた関わらず休養させられたことがファンの物議を醸した。この年は朝倉健太、川上憲伸がケガで離脱し、ローテーションを守ったのは山本昌一人だった。佐々木恭介ヘッドコーチが監督を代行。最終的に阪神には勝ち越し、完全優勝は阻止した。4番打者である落合監督が就任。
星野カラーを一新し、見事就任1年目でリーグ優勝を果たす。主力は元より控え選手も数多く起用し、守り勝つ野球を見せた。日本シリーズでは、本拠地ナゴヤドームで1勝3敗と勝ち越せなかったことなどが災いし、西武に3勝4敗で惜しくも日本一は果たせなかった。10月30日に名古屋市内で優勝パレードでは16万人を動員した。
ドラフトでは石井裕也をはじめ即戦力となりうる新人を確保。セ・パ交流戦で15勝21敗と苦戦を強いられる。オールスター前後の11連勝など後半戦には粘り強さを阪神に2度にわたって0.5ゲーム差まで迫った9月に入り失速、連覇を逃した。“ぶっちぎり”で優勝することを落合監督が公言、52年ぶりの日本一を狙う。
宿舎を第2次星野政権から使用していた赤坂プリンスホテルからホテルニューオータニへ変更することが決定した。阪神も同じ宿舎を使用しており、阪神とは巨人戦と神宮球場でのヤクルト戦で互いが日程的に重なることがあり、選手同士が同じ日に同じホテルに宿泊するという好ましくない事態がしばしば起きていたということと、ヤクルト主催の千葉マリンスタジアムでの地方試合に開始により公式戦が始まったことで遠征がニューオータニと併用して宿舎契約すれば宿泊料金が割安になるというメリットがあったための変更とされているが、球団による星野色一掃のためという理由ものではとささやかれている。 2006年10月10日、マジック1で迎えた東京ドームの読売戦に9-3で勝利。
勝利投手・胴上げ投手は岩瀬仁紀。最後は2塁ベースを踏んで優勝を決定させた。
落合監督の見えぬ偉業このことはメディアではほとんど報じられていないのだが、2003年以前の中日は優勝してから次に優勝するまでに最短でも6年(1982年→1988年)かかっていた。
落合監督が監督就任1年目で優勝したため中日球団が持ってこの最短記録を5年(1999年→2004年)に縮めることができた。落合監督の目に見えぬ偉業とも言えよう。連覇こそ逃したものの、2006年の優勝によってこの記録を2年にまで縮めた。落合監督以前に連続任期中にチームを2回以上優勝に導いた監督はまだかったが(星野仙一は中日監督として合計2回優勝に導いているが、第一次政権(〜1991年)と第二次政権(1996年〜)にそれぞれ1回ずつであるのでこれに該当しない)、2006年の優勝によりこの悪しき伝統にも終止符を打った。