そのまんま東 宮崎県知事 当選
談合事件後、あらたに知事選挙が行われた。
開票の結果、タレントのそのまんま東(東国原英夫)無所属=が26万6807票を獲得して、他候補に大差をつけて初当選した。
県政史上初の民間人出身となった。知事選の投票率は64・85%。
得票数は、無所属の前林野庁長官の川村秀三郎が19万5124票、
無所属、自民・公明推薦の元経済産業省課長の持永哲志が12万825票、
共産党公認の共産党県委員会委員長の津島忠勝が1万4358票、
無所属の元教諭の武田信弘が3574票を獲得した。
東氏は抜群の知名度を武器に、終始、上り調子で選挙戦を展開。
具体的なマニフェストや、個人演説会、街頭演説などにおける明解な政策説明などに評価が集まった。
川村、持永氏の間で見られた保守分裂の構図が、無党派層、浮動票を東氏に向かわせた。
川村氏は特定の政党、組織・団体などから推薦を受けない「県民党」を標ぼう。
自民勢力の一部や社民が支援に回り、連合宮崎も票固めに積極的に動いた。立候補表明は遅れたが、農林業政策に精通している点で、郡部を中心に急速に浸透。行政能力に期待が集まり、宮崎市などで支持を広げたが、持永氏との保守票争奪が響いた。持永氏は自民と自民友好の経済団体などから推薦を受け、告示直前には公明推薦も得た。
体制としては申し分なかったが、自民勢力や農林業団体などが刃こぼれを起こすなど一枚岩になり切れなかった。終盤、自民党本部の幹部や閣僚経験者が引き締めを図ったが、流れは止まらなかった。
1957年9月16日 宮崎県都城市で生まれる。 1980年 専修大学経済学部卒業
1985年 フリーアナウンサー片平きみよ(現・片平夏貴)と結婚するも1989年に離婚。
1990年 著書『ビートたけし殺人事件』がドラマ化された際に共演して知り合った、女優のかとうかず子(当時 かとうかずこ)と再婚。
子と離婚。
夫の東が出演するテレビ番組を殆ど見てかったらしい。 2006年12月13日 所属事務所であるオフィス北野との契約を解消(事実上の芸能界引退)。
15日、宮崎県知事選挙出馬を表明。 2007年1月21日 選挙の際は「そのまんま東」で活動し、宮崎県知事に初当選。
以後は本名「東国原英夫」での活動を表明。
東国原姓は宮崎県都城地域や鹿児島県曽於地域においては少なくない氏姓である。
宮崎県立都城泉ヶ丘高等学校時代はハンドボール部に所属。
国体代表に選出されるなど、中心選手として活躍。
そのまんま東は、たけし軍団メンバーの名前を全員変更する宴席で自分だけ、名前は特に与えられず、東が「師匠。私は名前はどうなるのでしょうか?」と聞くとビートたけしが「お前はそのまんま、“東”だよ」と最初に言ったものの途中でいたずらっ気を起こし、「だから“そのまんま東”だよ」と言い切り、これが芸名となる。
大森うたえもんと組んだ「ツーツーレロレロ」でデビュー。大森は先代相棒(丸山昭範)はラジオドラマでのセリフのトチりが原因で引退したと言われているが、実際は東との3か月間だけの契約だった。東本人が著書「60歳を人生ピークにもっていく法」で書いている内容では、「オスカル・メスカル」というコンビ名でたけしに弟子入りした直後、相棒が芸能界入りする目的であった河合奈保子を生で見たことで満足しコンビ解散、やむをえず京都産業大学の学生だった丸山と「ツーツーレロレロ」を結成、その後彼にはたけしに何もいわず失踪した事に大森と組みなおしたらしい。不満を漏らしていたが、真相を東がたけしに告白すると、許したという。
風俗店で年齢を詐称した当時16歳の少女と関係した事などによる謹慎中に、早稲田大学第二文学部の社会人入試に挑戦し合格。
受験勉強期間は、寺で坐禅を組みながら自己反省し、勉強に取り組んだという。卒業成績は146単位(卒業要件は124単位)、37科目中「優」が31科目、「良」が5科目、「可」が1科目と優秀な成績を修める。同学部を卒業した2004年には、社会人AO入試で同大学の政治経済学部に再入学し、メディア露出は少なくなった。2006年3月には同学部を中退している。細木数子曰く、「テレビに向いてない」とのこと。
事件等
1986年12月9日
ビートたけしに率いられ講談社を襲撃(フライデー襲撃事件)、逮捕される。
当時は、暴行による、たけしと軍団員(そのまんま東ら)は所轄署により現行犯逮捕
1998年10月13日
東京都内のイメージクラブ「年中夢中」で当時16歳の少女から客としてわいせつなサービスを受けた事件で、児童福祉法違反容疑による事情聴取を受けた。
以後芸能活動を一時自粛。 数回に渡り参考人として出頭した際に「18歳未満とは知らなかった」等とコメント。
その後復帰したが、直後に元マネージャーが同じ容疑で捕まるという事件があった。
1999年11月22日
警視庁赤坂署が後輩タレントへの傷害容疑で書類送検。
同署の調べでは1997年1月12日、東京都港区の料理店で開かれた所属事務所の忘年会で、当時「北海ジャンジャン」の芸名で活動していた男性の側頭部を足で蹴り、怪我を負わせた疑い。
政治の世界へ早稲田大学第二文学部在学時における卒業論文のテーマは卒業後も同学政治経済学部に再入学し、中途退学に至った政治を学ぶ姿勢を育んできた。
この頃の元夫人かとうかず子との離婚の原因も、強い政界進出志向からくる夫婦間の将来設計理念不一致が主な原因であるとの見方が強い。離婚後には「前々から政治家になりたいと思っていた」と言ってことが明かされ、本人の発言やブログの記事からも政治への強い関心を見ることができる。近年では政界への進出を強く志向しており、2006年に東本人を代表とする「そのまんま会」を設立、同12月4日には宮崎県選挙管理委員会に政治団体としての届け出を行った。2007年1月21日の知事選当選後は本名での活動を表明している。
開票の結果、タレントのそのまんま東(東国原英夫)無所属=が26万6807票を獲得して、他候補に大差をつけて初当選した。
県政史上初の民間人出身となった。知事選の投票率は64・85%。
得票数は、無所属の前林野庁長官の川村秀三郎が19万5124票、
無所属、自民・公明推薦の元経済産業省課長の持永哲志が12万825票、
共産党公認の共産党県委員会委員長の津島忠勝が1万4358票、
無所属の元教諭の武田信弘が3574票を獲得した。
東氏は抜群の知名度を武器に、終始、上り調子で選挙戦を展開。
具体的なマニフェストや、個人演説会、街頭演説などにおける明解な政策説明などに評価が集まった。
川村、持永氏の間で見られた保守分裂の構図が、無党派層、浮動票を東氏に向かわせた。
川村氏は特定の政党、組織・団体などから推薦を受けない「県民党」を標ぼう。
自民勢力の一部や社民が支援に回り、連合宮崎も票固めに積極的に動いた。立候補表明は遅れたが、農林業政策に精通している点で、郡部を中心に急速に浸透。行政能力に期待が集まり、宮崎市などで支持を広げたが、持永氏との保守票争奪が響いた。持永氏は自民と自民友好の経済団体などから推薦を受け、告示直前には公明推薦も得た。
体制としては申し分なかったが、自民勢力や農林業団体などが刃こぼれを起こすなど一枚岩になり切れなかった。終盤、自民党本部の幹部や閣僚経験者が引き締めを図ったが、流れは止まらなかった。
1957年9月16日 宮崎県都城市で生まれる。 1980年 専修大学経済学部卒業
1985年 フリーアナウンサー片平きみよ(現・片平夏貴)と結婚するも1989年に離婚。
1990年 著書『ビートたけし殺人事件』がドラマ化された際に共演して知り合った、女優のかとうかず子(当時 かとうかずこ)と再婚。
子と離婚。
夫の東が出演するテレビ番組を殆ど見てかったらしい。 2006年12月13日 所属事務所であるオフィス北野との契約を解消(事実上の芸能界引退)。
15日、宮崎県知事選挙出馬を表明。 2007年1月21日 選挙の際は「そのまんま東」で活動し、宮崎県知事に初当選。
以後は本名「東国原英夫」での活動を表明。
東国原姓は宮崎県都城地域や鹿児島県曽於地域においては少なくない氏姓である。
宮崎県立都城泉ヶ丘高等学校時代はハンドボール部に所属。
国体代表に選出されるなど、中心選手として活躍。
そのまんま東は、たけし軍団メンバーの名前を全員変更する宴席で自分だけ、名前は特に与えられず、東が「師匠。私は名前はどうなるのでしょうか?」と聞くとビートたけしが「お前はそのまんま、“東”だよ」と最初に言ったものの途中でいたずらっ気を起こし、「だから“そのまんま東”だよ」と言い切り、これが芸名となる。
大森うたえもんと組んだ「ツーツーレロレロ」でデビュー。大森は先代相棒(丸山昭範)はラジオドラマでのセリフのトチりが原因で引退したと言われているが、実際は東との3か月間だけの契約だった。東本人が著書「60歳を人生ピークにもっていく法」で書いている内容では、「オスカル・メスカル」というコンビ名でたけしに弟子入りした直後、相棒が芸能界入りする目的であった河合奈保子を生で見たことで満足しコンビ解散、やむをえず京都産業大学の学生だった丸山と「ツーツーレロレロ」を結成、その後彼にはたけしに何もいわず失踪した事に大森と組みなおしたらしい。不満を漏らしていたが、真相を東がたけしに告白すると、許したという。
風俗店で年齢を詐称した当時16歳の少女と関係した事などによる謹慎中に、早稲田大学第二文学部の社会人入試に挑戦し合格。
受験勉強期間は、寺で坐禅を組みながら自己反省し、勉強に取り組んだという。卒業成績は146単位(卒業要件は124単位)、37科目中「優」が31科目、「良」が5科目、「可」が1科目と優秀な成績を修める。同学部を卒業した2004年には、社会人AO入試で同大学の政治経済学部に再入学し、メディア露出は少なくなった。2006年3月には同学部を中退している。細木数子曰く、「テレビに向いてない」とのこと。
事件等
1986年12月9日
ビートたけしに率いられ講談社を襲撃(フライデー襲撃事件)、逮捕される。
当時は、暴行による、たけしと軍団員(そのまんま東ら)は所轄署により現行犯逮捕
1998年10月13日
東京都内のイメージクラブ「年中夢中」で当時16歳の少女から客としてわいせつなサービスを受けた事件で、児童福祉法違反容疑による事情聴取を受けた。
以後芸能活動を一時自粛。 数回に渡り参考人として出頭した際に「18歳未満とは知らなかった」等とコメント。
その後復帰したが、直後に元マネージャーが同じ容疑で捕まるという事件があった。
1999年11月22日
警視庁赤坂署が後輩タレントへの傷害容疑で書類送検。
同署の調べでは1997年1月12日、東京都港区の料理店で開かれた所属事務所の忘年会で、当時「北海ジャンジャン」の芸名で活動していた男性の側頭部を足で蹴り、怪我を負わせた疑い。
政治の世界へ早稲田大学第二文学部在学時における卒業論文のテーマは卒業後も同学政治経済学部に再入学し、中途退学に至った政治を学ぶ姿勢を育んできた。
この頃の元夫人かとうかず子との離婚の原因も、強い政界進出志向からくる夫婦間の将来設計理念不一致が主な原因であるとの見方が強い。離婚後には「前々から政治家になりたいと思っていた」と言ってことが明かされ、本人の発言やブログの記事からも政治への強い関心を見ることができる。近年では政界への進出を強く志向しており、2006年に東本人を代表とする「そのまんま会」を設立、同12月4日には宮崎県選挙管理委員会に政治団体としての届け出を行った。2007年1月21日の知事選当選後は本名での活動を表明している。