硫黄島 栗林

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硫黄島 栗林 0

栗林 忠道(くりばやし ただみち、明治24年(1891年)7月7日 ‐ 昭和20年(1945年)3月26日)は、日本陸軍の軍人。




栗林 忠道 概要
長野県埴科郡旧西条村(現長野市松代町)出身。
戦国時代から続く郷士の家に生まれる。合格していたが、恩師の薦めも陸軍士官学校へ進んだ。駐在経験があり、陸軍の中では珍しい米国通だった。国際事情にも明るく対米開戦にも批判的だったとされる。戦いで米軍との激戦を指揮し、最後は先頭に立ち突撃を行い戦死したと言われるが、その最期についての正確な情報は無い。その生き様に対しては、敵国である米国でも賞賛の声が絶えない。生家から少年時代の日記帳や成績表などが発見され、生後まもなく地元の士族・倉田家へ養子に出ていた時期など、従来は知られていなかった少年期の詳細が明らかになった。戦い太平洋戦争(大東亜戦争)末期の激戦硫黄島の戦いが守備隊総司令官を務めた。

合理主義者で、用意周到な大規模地下陣地を構築し、将兵を爆撃・艦砲射撃に耐えさせ、万歳突撃による玉砕を禁じ、持久戦を行った。
物資も豊富で兵力も近いアメリカ軍に対して善戦し、大戦時、異例の大打撃を与えた。

栗林自身は、三月二十六日にアメリカ軍に対して突撃を敢行し戦死を遂げた。
突撃前に中将(実際には大将に昇進していたが)の階級章を外し、一兵士と戦い戦死した為、戦闘終結後のアメリカ軍による調査でも栗林の遺体を発見出来なかった。 この最後の突撃は、形を取らず、隠密に敵陣に近づき敵側の油断を突いたゲリラ戦に近い戦法を取った為、予期していなかったアメリカ軍に対して大打撃を与えた。
※栗林の最期については雑誌「SAPIO」2006年10月25日号において異説が唱えられたが、文藝春秋平成19年2月号において梯久美子による検証がな否定された。
優秀とされた指揮官戦後、軍事史研究家やアメリカ軍軍人に対し、「太平洋戦争に於ける日本軍人で優秀な指揮官は誰であるか。」と質問した際、「ジェネラル・クリバヤシ」と栗林の名前を挙げる人物が多いと云われている[要出典]。
22平方kmに硫黄島を、指揮下の兵員よりも遥かに上回る三倍の兵力、しかも物量・装備全てに於いて圧倒的に有利であったアメリカ海兵隊の攻撃に対し、最後まで士気を低下させずに互角以上に渡り合い、アメリカ側の予想を上回る一ヶ月半も事、また陸軍では数少ない親米派であり日米開戦に最後まで反対していた事が理由であると思われる。今日に於いても日米両方から名将として高く評価されている。

栗林 忠道 訣別の電文戦局最後の関頭に直面せり。
敢闘は鬼神を哭かしむるものあり。想像を越えたる物量的優勢をもってする陸海空よりの攻撃に対し、苑然徒手空拳を以って克く健闘を続けたるは悦びとする所なり。
敵の猛攻に相次で斃れ為に御期待に反し此の要地を敵手に委ぬる外なきに至りしは小職の誠に恐懼に所にして、お詫び申し上ぐ。
最後の敢闘を行はんとするに方り、熟々皇恩を思ひ、粉骨砕身も亦悔いず。本島を奪還せざる限り皇土永遠に安からざるに思ひ至り、縦ひ魂魄となるも皇軍の捲土重来の魁たらんことを期す。茲に最後の関頭に立ち、重ねて衷情を必勝と安泰とを祈念しつつ永へに御別れ申し上ぐ。父島、母島に就ては敵の攻撃をも断固破摧し得るを確信するも何卒宜しく御願い申し上ぐ。
終わりに左記〔注:原文は縦書き〕駄作御笑覧に供す。

国の為重きつとめを果し得で 矢弾尽き果て散るぞ悲しき仇討たで野辺には朽ちじ吾は又 七度生まれて矛を執らむぞ醜草の島に蔓るその時の 皇国の行手一途に思ふ


栗林 忠道 エピソード
子煩悩であり、アメリカ駐在時代や硫黄島守備隊長当時には子息に手紙を書き送った。
アメリカから書かれたものは、最初の子どもである長男が幼かったためイラストを入れた絵手紙になっている。硫黄島から次女(たか子。栗林は「たこちゃん」と呼んでいた)に送った手紙では留守宅の心配や生活の注意など、軍人らしさが薄く一人の父親としての面が強く出た内容になっている。内容は以下の通り。手紙は戦後にまとめられて「『玉砕総指揮官』の絵手紙」(小学館文庫、2002年)として刊行された。
留守宅は東京大空襲で焼失したが、家族は長野県に疎開しており難を免れた。

ちなみに自由民主党の衆議院議員・新藤義孝は、たか子の子息であり、栗林の孫に当たる。
2006年12月9日には、クリント・イーストウッド監督による「硫黄島プロジェクト二部作」映画の第2弾として、栗林中将を中心に日本軍側から戦いを『硫黄島からの手紙』が公開されるが、この映画では、渡辺謙が栗林中将役を演じている(第1弾として10月28日から公開された『父親たちの星条旗』がある。これはアメリカ軍側から描いた作品であり、アメリカ政府の意向に従いうわべだけの『戦争英雄』を演じなければならなかった兵士の葛藤や苦悩を描いている)

栗林 忠道 略歴
明治44年(1911年) 3月 旧制長野県立長野中学校第11期卒業。
大正3年(1914年) 陸軍士官学校第26期卒業。
陸軍騎兵大尉に昇進。
同年11月陸軍大学校35期次席卒業時に恩賜の軍刀を授与される。
昭和2年(1927年) 武官補佐官としてワシントンに駐在。
陸軍騎兵少佐に昇進。
陸軍騎兵中佐に昇進。
陸軍騎兵大佐に昇進。
昭和14年(1939年) 軍歌「愛馬行進曲」選定に関わる。
陸軍少将に昇進。
昭和18年(1943年) 6月 陸軍中将に昇進。
留守近衛第2師団長となる。師団厨房で起きた失火の責任を取り、師団長を辞す。
5月27日 第109師団長となる。
6月8日 硫黄島に着任。
7月1日 小笠原兵団長兼任。
兵団司令部を硫黄島に置き指揮を執る。 昭和20年(1945年) 2月19日 米軍、硫黄島上陸開始。
2月23日 擂鉢山独立拠点、米軍占領。
3月16日 大本営に訣別電報打電。
3月17日 特旨を以て陸軍大将昇進(史上最年少)。
3月26日 最後の総攻撃により戦死。
総攻撃に際し、階級章を外して参加したため、現在でも栗林の遺体は確認・発見されていない。

栗林 忠道 文献

栗林 忠道 著書
『栗林忠道硫黄島からの手紙』文藝春秋、2006年8月、ISBN 4163683704 『「玉砕総指揮官」の絵手紙』吉田津由子編、小学館、2002年4月、ISBN 4094026762
栗林 忠道 関連文献

栗林 忠道 ノンフィクション
舩坂弘著『硫黄島――ああ!栗林兵団』(講談社、1968年8月) 陸戦史研究普及会編著『陸戦史集15 硫黄島作戦』(原書房、1970年) 児島襄著『将軍突撃せり――硫黄島戦記』(文藝春秋、1970年) 鳥居民著『小磯内閣の倒壊――3月20日〜4月4日』(草思社、1987年9月、ISBN 4794202865) 現代タクティクス研究会著『第二次世界大戦将軍ガイド』(新紀元社、1994年8月、ISBN 4883172341) 岡田益吉著『日本陸軍英傑伝――将軍暁に死す』(光人社、1994年8月、ISBN 4769820577、初版1972年刊行) R.F.ニューカム著、田中至訳『硫黄島――太平洋戦争死闘記』(光人社、1996年2月、ISBN 4769821131、原著1965年刊行) 橋本衛ほか著『硫黄島決戦』(光人社、2001年8月、ISBN 4769823177) 堀江芳孝著『闘魂 硫黄島――小笠原兵団参謀の回想』(光人社、2005年3月、ISBN 4769824491、初版1965年刊行) 梯久美子著『散るぞ悲しき――硫黄島総指揮官・栗林忠道』(新潮社、2005年7月、ISBN 4104774014) 田中恒夫ほか編著『戦場の名言――指揮官たちの決断』(草思社、2006年6月、ISBN 479421507X) 留守晴夫著『常に諸子の先頭に在り――陸軍中將栗林忠道と硫黄島戰』(慧文社、2006年7月、ISBN 4905849489) 柘植久慶著『栗林忠道――硫黄島の死闘を指揮した名将』(PHP研究所、2006年12月、ISBN 4569667430) 川相昌一著『硫黄島戦記――玉砕の島から生還した一兵士の回想』(光人社、2007年1月、ISBN 4769813287)
栗林 忠道 フィクション(架空戦記)作品横山信義著『鋼鉄のメロス――八八艦隊外伝(2)』(徳間書店、1997年4月、ISBN 4198503656) 林譲治著『大日本帝国航空隊戦記(6)トラック島沖海戦』(ケイエスエス、1999年11月、ISBN 4877093915) 羅門祐人著『真大日本帝国軍陸海統合の嵐(4)大和、サンフランシスコ湾突入』(




硫黄島は、東京都小笠原村に属する東西8km、南北4kmの島。
太平洋戦争の激戦の地であったこの島は、以前は「いおうとう」と呼ばれていたが、戦時中米国内で「いおうじま」と呼ばれ、戦後も統治下にことから、今日では「いおうじま」と呼ばれることが多くなっている。
太平洋戦争中の1945年2月23日、硫黄島攻防戦においてアメリカ海兵隊が擂鉢山に星条旗を掲揚した写真。




硫黄島 地形
数千年前の海底火山の活動で島がで急速な隆起が続いている。
活火山の火山島であり、島の至る所に地熱、温泉がある。南北には、それぞれ北硫黄島と南硫黄島が島のつくりは硫黄島と同じである。硫黄が由来。戦前は(いおうとう)と呼ばれることが多かったが、現在は呼び方が定着している。本州、グアム島、南鳥島、沖縄本島から、それぞれ1,200km〜1,300km程度の等距離にある。
2006年11月11日と12月27日に、気象庁が合成開口レーダーを使い硫黄島を観測したところ、11月11日観測時と比べ、島が20センチ隆起していることが発見され、火山噴火予知連絡会が硫黄島の隆起活動が活発し小規模な水蒸気爆発の危険性を発表した。

ちなみに、硫黄島は間、スピードで隆起している。
硫黄島は、有数の集落があった。
島北部には元山部落、東部落、西部落、南部落、北部落、千島部落の6つの集落があり、元山部落には島の中心となっていた。島には警察官1名が駐在していた。
島の交通手段は、郵便船で母島へ渡り、そこから船で東京へ向かうルートと、2ヶ月に定期船「芝園丸」で東京へ直行するルートがあった。

島内の産業は、硫黄採取、サトウキビ栽培、コカイン栽培、漁業等で、産業はおり、島民の大半は同社に間接的につながっていた。
島民の証言によれば、「きちんと稼げていた」とのことであり、絶海の孤島ではあったが、島民の経済状態は悪くなかったようである。島内での農業生産はため、米は本土からの輸入に頼っていた。
硫黄島南部は戦前から海軍省によって要塞地帯に指定され、一般島民の立ち入りが制限されていた。
太平洋戦争が始まり、昭和19年に入ると大本営はマリアナ諸島の防備強化と防備強化を開始し、陸軍部隊(「伊支隊」指揮官:厚地兼彦大佐、4883名)と海軍部隊(「硫黄島警備隊」指揮官:和智恒蔵中佐、1362名)が硫黄島に進出した。島民も在島していたが、陸海軍部隊は上記要塞地帯に指定された島南部に展開したため、少数の島民が部隊に行商に出かけるほかは、部隊と島民の接触は少なかった。
参謀本部は1944年(昭和19年)5月22日に、小笠原防備を増強することを目的として第109師団を創設し、栗林忠道中将を師団長に任命し、栗林中将は6月8日に硫黄島に着任した。
6月15日、アメリカ軍はサイパン島上陸と硫黄島を空襲、翌日の空襲と島内の各部落はほぼ焼失した。その後も空襲と艦砲射撃が続いたため、島民に対しては6月下旬に父島経由で内地へ疎開する命令が内示され、3回(7月1日、7月12日、7月14日)に島民の疎開が軍に軍属として徴用された者(約230名)を除く全島民が硫黄島を島民が生活を営んだ硫黄島村の歴史は幕を閉じた。
その後、1945年2月〜3月にかけて行われたこの島の攻防(硫黄島の戦い)で、日本軍2万129人、米軍2万8686人の戦死傷者を出す大激戦が繰り広げられた。
摺鉢山に米軍歩兵によって星条旗を掲げる際に撮った写真は、米バージニア州アーリントン国立墓地(米国の戦没者専用墓地)にある「海兵隊記念碑」のモデルにもなっている。島は施政権のもとにおかれ、1960年代までアメリカ空軍基地として核兵器保管などに用いられた。1968年6月26日、小笠原諸島と共に日本に返還されたが、島内の地下には無数の不発弾や一万柱を超える日本人兵士の遺骨が残され回収も困難な状態であり、いまだ島民の帰島は実現していない。遺族、それに戦没者の遺族などの一般の人が硫黄島に上陸できるのは、戦没者の慰霊祭の時のみである。
1985年2月19日、硫黄島の米軍上陸40年目に当たる日に、「名誉の再会」と呼ばれる行事が行われた。
参加したのは兵士、場所は米軍が上陸した二ッ根浜である。会場中央には両面に文が刻まれた石碑が建てられ、日本文が刻まれた山側には日本人参加者が、英文が海岸側には米国人参加者が整列した。除幕と献花が参加者たちは碑に向かって歩み寄り、握手・抱擁を交わし合った。 その後、1995年3月には50周年記念、2000年3月には日米合同慰霊祭がこの碑の前で行われている。島現在は航空基地が設置され、通常一般の人は島に立ち入ることはできないが、無人島ではない。
島に一般住民が住民が住んでいる島はため、硫黄島通信所にて空母艦載機による夜間離発着訓練が行われているほか、航空自衛隊の各種実験飛行といった、日本本土では実施できないような軍事利用ができる貴重な島である。統合的作戦演習が可能な場所でもある。海風による浸食が激しいため、改修が常時行われており、その作業に従事する建設業者の住宅施設が存在する。国土地理院と気象庁職員が定期的に来島して火山観測を行っている。
東京とグアム島を結ぶ航空路上に存在するため、時々、計器の故障等の理由で、グアム島、オセアニアから日本、韓国方面に向かう民間機の緊急着陸が行われる事がある。
そのため、軍事用飛行場にも関わらず、国際航空運送協会の3レターコードが設定されている。
硫黄島には港は船積みのボートが着けられる程度の波止場しか存在しない。
沖合いに停泊せざるを得ない。そのため、航空機では重量物は、おおすみ型輸送艦を使い、艦載のLCACで揚陸させる。航空燃料や軽油などは、沖合いに停泊した民間タンカーから、長大ホースを伸ばして補給を行う。宅配便・郵便物は住所を記載しても届かない。仕送りや外部から業務用の資材や郵便物などは、自衛隊が指定した基地へ一括搬入することになる。

硫黄島航空基地(いおうじまこうくうきち)は、硫黄島内に海上自衛隊の飛行場。
運営者は海上自衛隊であるが、航空自衛隊の航空機もこの基地を使用する。
基地に滑走路は1本のみだが、平行誘導路が、トラブルによる主滑走路閉鎖時に離着陸の可能な緊急滑走路として整備されている。

海上自衛隊は、航空基地施設の維持及び飛来する飛行機に対する航空管制・給油・救難・司法警察業務(警務隊担当)など(救難活動に小笠原諸島の急患輸送も含まれる)。
硫黄島駐留部隊には関係ないが、毎年夏に、海上自衛隊掃海部隊が、硫黄島近海で実際に機雷を撒いて掃海訓練を行っている。 航空自衛隊は、航空基地を使用している。
補給のため、本土から本島や輸送機の運用、各種実験飛行、演習などを行っている。 陸上自衛隊は、太平洋戦争中の砲弾処理などの不発弾処理。
日米地位協定による合意により、駐留軍(米軍)に提供が可能であり、日本本土における夜間離着陸訓練(NLP)の実施による騒音負担軽減のため、米軍艦載機によるNLPが実施されることがある。
他には、医官が常駐し、上記関係者に医療活動を施している。
上記にも書いたように、戦没者の慰霊祭が現地で開催される際には、旧島民や遺族、それに戦没者の遺族などの一般の人の硫黄島上陸が許可される場合もある。
慰霊祭のときは、小笠原諸島父島から、小笠原海運の旅客船「おがさわら丸」で島に向かい、船積みのボートで島に上陸する。行われたが、その際は許可による上陸は建設関係者以外禁止されている。