t.A.T.u. ТАТУ、タトゥ、タトゥー
t.A.T.u. ТАТУ、タトゥ、タトゥー
エレーナ・セルゲーエヴナ・カーチナと二人組がように誤解されているが、本当はプロデューサー・作曲者・作詞者・各マネージャーを含むプロジェクト全体の名称である。
片方だけを呼ぶときは単数形でтатушка(タトゥーシュカ)と呼ぶ。愛称形(指小語)であるが、このような言語学的解説は理解されにくいため、neformat社では「татушка」(タトゥーシュカ)は「тату девушка」(タトゥー・ジェーヴシュカ、"tatu girl"の意)の略というより単純な説明をしている。
ТАТУというグループ名は、ロシア語の「Та любит ту」(ター・リュービト・トゥー、"This (girl) loves that (girl)"の意)の略だとされている。
t.A.T.u. ТАТУ、タトゥ、タトゥー メンバー
ユーリャヴォーカル:
リェーナ(エレーナ・セルゲーエヴナ・カーチナ) Елена Сергеевна Катина (Lena Katina)
1984年10月4日モスクワ生まれ
ユーリャ(ユーリヤ・オレーゴヴナ・ヴォルコヴァ) Юлия Олеговна Волкова (Julia Volkova)
1985年2月20日モスクワ生まれ
メイン・スポンサー:
ボリス・レンスキー (Борис Ренский)(現役) プロデューサー:
イワン・ニコラエヴィッチ・シャポヴァロフ (Иван Николаевич Шаповалов)(既に解雇) ボリス・レンスキー(メインスポンサー兼任) エレーナ・カーチナ(ヴォーカル兼任) ユーリヤ・ヴォルコヴァ(ヴォーカル兼任) 副プロデューサー:
エレーナ・ウラジーミロヴナ・キーペル (Елена Владимировна Кипер)(脱退) 1stアルバム英語版プロデューサー:
トレヴァー・ホーン (Trevor Horn)
作曲担当:
セルゲイ・ガロヤン (Сергей Галоян)(脱退・復帰) アレクサンドル・ヴォイチンスキー (Александр Войтинский)(脱退) イワン・シャポヴァロフ(脱退) R. リャプツェフ (Р. Рябцев)
E. クリツィン (Е. Курицын)
M. ラサル (M. Lasar)
L. アレクサンドロフスキー (L. Alexandrovski)
A. ポクートニ (A. Pokutni)
V. アダリチェフ (V. Adarichev)
作詞担当:
エレーナ・キーペル
ヴァレリー・ポリエンコ (Валерий Полиенко)(脱退・復帰) イワン・シャポヴァロフ(解雇) R. リャプツェフ
A. ヴルィフ (А. Вулых)
A. カサエヴァ (А. Касаева)
V. ステパンツォフ (В. Степанцов)
英語版作詞者:
トレヴァー・ホーン
マーティン・キールセンバウム (Martin Kierszenbaum)
コンサートマネージャー:
レオニード・ズュニク(脱退) オリガ・マトヴェーヴァ(現役) 広報担当マネージャー:
ベアタ・アルジェーエヴァ(事故のため退職) アレクサンドラ・チチャンコ (結婚退職
専属ダンサーズ:6名(解雇)
ヴォーカルにカーチャ・ネチャエヴァ(Катя Нечаева)(解雇)
頃もあった。
後、バックコーラスのひとりとしてTATYに参加した。発声が不安定となり、しばしばカーチャがパートを代わりに歌っていた。その後もシャポヴァロフはカーチャのソロデビューを構想していたので、カーチャも2003年の「天空」までТАТУと行動をともにしていた。脱退したユーリャとレーナを引き戻すためにレンスキーらスポンサーがシャポヴァロフを解任。カーチャは居場所を失い、結局ТАТУを去ることになった。カーチャとともに契約したエストニア人ドラマーとギタリストがいたが、「天空」以前にТАТУから離れている。 ゴードン・マシュー・サムナー(Gordon Matthew Sumner, STING)
1951年10月2日、イギリスのニューカッスル・アポン・タイン生まれ 英国ロックの大物スティングの本名。
1977年に、ポリスを結成、1978年にA&Mより「ロクサーヌ」でデビュー、1983年、活動休止。
1985年、スティングとしてのソロ活動を開始。
ТАТУのセカンドアルバム「デンジャラス・アンド・ムーヴィング」では、ベーシストとしてスポット参加。 リチャード・カーペンター(Richard Carpenter)
1946年10月15日、アメリカ生まれ カーペンターズにてボーカル、作曲、アレンジなどを担当していた。
セカンドアルバム「デンジャラス・アンド・ムーヴィング」では、「GOMENASAI」というストリングスアレンジを手掛けた。 デイヴ・スチュワート(David A. Stewart)
1952年9月9日、イギリス生まれ 元ユーリズミックス。
セカンドアルバム「デンジャラス・アンド・ムーヴィング」では、「Friend or Foe」という曲を手掛けた。アレクサンドル・ヴォイチンスキーとイワン・シャポヴァロフが子供バンド「ネポセディ(Непоседы)」を卒業したばかりのレーナ・セルゲーエヴナ・カーチナを見出したところからТАТУは始まった。
レーナの父セルゲイ・カーチン(Сергей Катин)は優れた作曲家で音楽プロデューサでもあり、ヴォイチンスキーとは面識があった。オーディションではレーナ・カーチナと「ネポセディ」で歌ってユーリャ・ヴァルコヴァも選ばれた。
その頃、ヴォイチンスキーはコソボ紛争における爆撃で首都ベオグラードに家族を失い、悲しみに打ちひしがれていた。
ヴォイチンスキーは不条理な戦争の悲しみや憤りを込めた「ユーゴスラビア(Югославия)」を作曲し、レーナ・カーチナに歌わせてデビューさせた。イワン・シャポヴァロフが当時恋人だったエレーナ・キーペルのコンセプトを利用してデュエットを提案した。ボリス・レンスキーを出資者として招きよせ、プロジェクトの財政を安定化した。作詞・作曲陣としては、セルゲイ・ガロヤン(作曲)、ヴァレリー・ポリエンコ(作詞)の二人を発掘。それまで無名な学生に過ぎなかったガロヤンとポリエンコは、才能を開花させた。「ТАТУ」に改称された。
エレーナ・キーペルは同性愛をコンセプトを得、シャポヴァロフがこれを採用した。
t.A.T.u. ТАТУ、タトゥ、タトゥー 2000年
2000年9月、エレーナ・キーペル作詞、セルゲイ・ガロヤン作曲による「ヤー・サシュラー・ス・ウマー(Я сошла с ума / 私はおかしくなった)」が一躍有名になった。
プロモーション・ビデオで、二人に同性愛の演技をさせ、これがセンセーションを巻き起こした。12月、シングル「ヤー・サシュラー・ス・ウマー」を発表。
t.A.T.u. ТАТУ、タトゥ、タトゥー 2001年
2001年、キーペルとガロヤンのコンビで「ナス・ニェ・ダゴニャット(Нас не догонят / 私たちはつかまらない)」がヒットし、アルバム「200・ポ・フストレーチノィ(200 ПО ВСТРЕЧНОЙ / (時速200キロで逆走)」(5月発表)がヒットした。
その存在が主に東欧各国でヒットチャートを駆け上っていった。
t.A.T.u. ТАТУ、タトゥ、タトゥー 2002年
2002年、トレヴァー・ホーンが編曲した英語版「200 KM/H IN THE WRONG LANE」がリリースされ、さらに「ヤ・サシュラ・ス・ウマ」の英語版「All the things she said」のプロモーション・ビデオがリメイクされた。
ТАТУのラテン文字表記は、従来はキリル文字をそのまま翻字した「TATU」だったが、存在していたため、「t.A.T.u.」に改名した。後半がТАТУ人気の絶頂であったと言える。
軋轢が生じていた。コンセプトは、演じているヴォーカルの二人にとっては強い抵抗があった。
最初にコンセプトを提供したエレーナ・キーペルに耐え難いものだった。ギャラ支払いの不明瞭さの問題もあった。シャポヴァロフは、入れ替えを画策したため、結局エレーナキーペルとセルゲイ・ガロヤンは脱退し、レーナ・カーチナとユーリャ・ヴォルコヴァは踏みとどまった。
ТАТУの経済的成功は2003年まで続くが、エレーナ・キーペルとセルゲイ・ガロヤンの脱退の影響は大きく、脱退後にリリースした曲は期待したほどヒットしたと言えなかった。
ユーロビジョン・ソング・コンテストでТАТУはロシア代表として参加した。
実際は、これ以前からユーリャ・ヴォルコヴァは喉の障害で十分な声が出なくなっており、2002年の12月に加入したカーチャ・ネチャエヴァがユーリャのパートを歌っていた(本番ではユーリャが歌った)。ТАТУ人気が日本に上陸したが、この頃にはシャポヴァロフの路線は完全に破綻していた。
ガロヤンの脱退後も踏みとどまっていたヴァレリー・ポリエンコもこの頃シャポヴァロフと絶縁し、ТАТУの成功を支えた主要な作詞・作曲者はなくなっていた。ガロヤンやヴォイチンスキーの曲に魅力があったからなのだが、シャポヴァロフは路線を過激化させていった。初アルバム『t.A.T.u.』は合計で200万枚が売れた。
シャポヴァロフは無茶苦茶な直前にキャンセルしたのをはじめ、各地で不条理なドタキャンを指示。
2003年6月27日、テレビ朝日のミュージックステーション出演を番組放送中にキャンセルし、騒動となった。などにより、人気は急速に低下した。ドタキャンをはじめとしたスキャンダラスな行動でファン離れが始まっていたТАТУにとって、日本では絶頂にいたこともあり、アーティストとして再起するチャンスであったが、結局日本でのドタキャン騒動が世界中に報道され話題となり、ТАТuの人気下落は加速する一方だった。
2003年12月にТАТУは再来日し、東京ドームでのコンサートを2日間実施したが、両日とも半数ほどが空席(公式発表によると、初日の動員数は25,029人だった)。
日、ユーリャ・ヴォルコヴァは体調を崩して出演できる状態ではなかったのだが、その歌唱力と表現力は集まったファンを納得させるものがあった。
絶賛以上に、従前の事件および事後報道が影響し、日本におけるТАТУブームは完全に失速したものとなった。シャポヴァロフはヴォーカル二人にキャンセルを指示してために、信頼関係は完全に失われた。
東京でレーナ・カーチナはТАТУからの脱退を示唆したが、踏みとどまった。
その後も、レーナ・カーチナ及びユーリャ・ヴォルコヴァのロシア大統領選出馬表明等、無軌道なスキャンダル路線を指示し続けるが、その一方でセカンドアルバムの製作も発表し、その製作模様はドキュメンタリーとしてテレビ放送されることになった。
t.A.T.u. ТАТУ、タトゥ、タトゥー 2004年
2003年12月にSTSテレビでドキュメンタリー「アナトミヤТАТУ」が放映されたのに続き、2004年1月〜3月テレビシリーズ「タトゥー・フ・パドネベースノィ(t.A.T.u. в Поднебесной / 天空のТАТУ)」が放映されるが、ТАТУ内部の軋轢と無軌道ぶりだった。
セカンドアルバムの製作は遅々として進まず、シャポヴァロフからはセカンドアルバムをより良いものにしようという気も、期日(放送最終日の3月14日)までに仕上げようという気も、感じられなかった。レーナ・カーチナとユーリャ・ヴォルコヴァにとってシャポヴァロフは、自分たちを世界的スターにしてくれた人物であり、何年も苦楽を共にしてきた親友でもあったが、この期に及んでもまともに活動をしようとしないシャポヴァロフを最終的に見限り、ついにシャポヴァロフに契約破棄を突きつける(2月)。シャポヴァロフはこの危機的状況を収拾しようともせず、番組もそのまま終了した。
その後の4月スポンサーたちはこの混乱の責任はシャポヴァロフにあるとして彼を解任した。
新プロデューサーには、エレーナ・キーペルに就任を依頼し、キーペル側も快諾したが、レーナ・カーチナ、ユーリャ・ヴォルコヴァらはキーペルの復活を望まず、結局メイン・スポンサーであったボリス・レンスキーが自ら暫定プロデューサーに就任することになる。解任後はドタキャン騒動は起きていない。
レンスキーは、権利についてТАТУ側と争ってエレーナ・キーペルと和解するとヴォーカルのレーナ・カーチナとユーリャ・ヴォルコヴァを呼び戻し、更にセルゲイ・ガロヤン、ヴァレリー・ポリエンコと再契約することに成功した。
ため仕事が出来なくなり、結局2004年の秋までТАТУは実働しなかった。トレヴァー・ホーン音楽活動25周年コンサートやベスラン学校占拠事件追悼コンサートなどで活動を再開している。
レーナ・カーチナの父で作曲家兼プロデューサーのセルゲイ・カーチンによればレーナのソロ活動も同時に行われることになるという。
作曲担当のセルゲイ・ガロヤンと広報マネージャーのアレクサンドラ・ティチャンコが結婚した。
ТАТУに落ち着くことになったガロヤンは、セカンドアルバム に曲を提供することになっている。
上に、ТАТУは音楽を取り戻しつつあるかのように思われる。
t.A.T.u. ТАТУ、タトゥ、タトゥー 2006年
2005年セカンドアルバムの英語版とロシア語版が年間最高アルバム賞を受賞した。
曲風はファーストアルバムより重厚に社会性が増した。アルバムタイトルとなった「廃人たち」も、現代の閉塞感への抵抗を秘めたものであることが明らかにされている。 最初期からТАТУはしばしば陰鬱な政治性を歌に込めているが、セカンドアルバムはそれが前面に出てきた。セカンドアルバムのテーマが告発にことを認めている。
再来日したТАТУは、東京・横浜・名古屋でミニライブをこなし、熱心なファンとの交流が図られた。地道な活動をおこなった。ライブハウスHOLIDAYで準備中、客の不入りを理由にライブハウスと管理会社が中止を決定し、日本のマスコミが「またドタキャン」と面白おかしく報道したが、実際はファンは次のライブ会場J.MAXに移動の便宜が混乱はなかった。 函館からユジノサハリンスクに移動したТАТУだったが、ここで契約解除となるはずだったバンドメンの契約更新が決まり、来年製作予定のサードアルバムまでТАТУは6人組で活動することになった。契約を解消したことから、独自レーベルを立ち上げるのか、様々な噂が飛び交っている。フィリップ・キルコーロフとアーラプガチョワが一時ТАТУの権利に関心があったことから、関係もささやかれている。
9月27日にはベストアルバム「THE BEST」が発売された。
全20曲を収録。一時期はボーナストラックが収録されるという 事になっていたが、結局インターナショナル盤と同じトラックリストとなった。これがリリースとなった。
t.A.T.u. ТАТУ、タトゥ、タトゥー 2007年
2007年リリース予定とされていた3rdアルバムは9月現在未だ発表されておらず、2008年にずれ込む可能性もある。
元々2006年10月にリリースされる予定であった「TRUTH 〜LIVE IN ST.PETERSBURG〜」のDVDがamazon限定で発売されることが決定している。公式サイトで延期が発表されたのち、リリースが2007年8月24日に公式サイトにて緊急発表された。リリースの運びになった。
ヴォーカルはレーナのみ。 Югославия / ユーゴスラビア(有線とラジオ放送のみ) Ельцин / エリツィン(不明) 2000年
「ТАТУ」に改称。
ヴォーカル二人制 Я сошла с ума / ヤー・サシュラー・ス・ウマー(シングル) ヤー・サシュラー・ス・ウマー(プロモーション・ビデオ) 2001年
Нас не догонят / ナス・ニェ・ダゴニャット(シングル) 200 по встречной / 200・ポ・フストレーチノイ(アルバム) ナス・ニェ・ダゴニャット(プロモーション・ビデオ) 30 минут / 30ミヌートゥ(プロモーション・ビデオ) 2002年
Not Gonna Get Us(ナス・ニェ・ダゴニャット英語版)をアメリカでリリース(シングル) All The Things She Said(ヤ・サシュラ・ス・ウマ 英語ヨーロッパ版)をドイツでリリース(シングル) 200・ポ・フストレーチノイ新装版(アルバム) 「t.A.T.u.」に改称 All the Things She Said(ヤー・サシュラ・ス・ウマ 英語アメリカ版)をアメリカでリリース(シングル) Простые движения / プラストィーイェ・ドヴィジェーニヤ(プロモーションビデオ) カーチャ加入。
2003年
Не верь, не бойся / ニ・ヴェーリ・ニ・ボイシャ(ユーロヴィジョン用プロモーション) ニ・ヴェーリ・ニ・ボイシャ(歌詞改訂版) ニ・ヴェーリ・ニ・ボイシャ(プロモーション・ビデオ) Ничья / ニチヤ(東京ドームコンサート用、2005年のアルバムに収録) 2004年
Белочка / ビェーラチカ
Защищаться очками / ザシシャーッツァ・アチカーミ(テレビ放映のみ) Всё нормально / フショー・ナルマーリナ(収録のみ) Ты согласна / トィ・サグラースナ(2005年のアルバムに収録) В космосе сквозняки / フ・コースマシェ・スクヴァズニャキー(収録のみ。歌詞のみ2005年のアルバム収録曲に使われる) 2005年
All About Usを日本で先行リリース。
全世界でリリース(シングル) Dangerous and Movingを日本で先行リリース、続いて全世界でリリース(アルバム) Люди-инвалиды / リュージ・インヴァリードィをロシアでリリース(アルバム) 2006年
THE BEST(初ベストアルバム) 2007年
DVD TRUTH 〜LIVE IN ST.PETERSBURG〜(amazon.co.jp限定版) DVD t.A.T.u.Expediton(未定) 2008年
Waste Management(3rdアルバム、発売日未定)
年代不明の曲(ボツ曲、デモ版、他の歌手の曲等) В твоих руках / フ・トヴァイーフ・ルカーフ
Мелодия любви / ミロージヤ・リュブヴィー
Лишь тебя / リーシュ・チビャー
Альфонс / アリフォーンス
Ты сошёл с ума(Я не глотаю) / トィ・サショール・ス・ウマー(ヤー・ニ・グラターユ) Одна / アドナー
Полчаса без любви / ポルチサー・ビズ・リュブヴィー
Заведи / ザヴェジー
エレーナ・セルゲーエヴナ・カーチナと二人組がように誤解されているが、本当はプロデューサー・作曲者・作詞者・各マネージャーを含むプロジェクト全体の名称である。
片方だけを呼ぶときは単数形でтатушка(タトゥーシュカ)と呼ぶ。愛称形(指小語)であるが、このような言語学的解説は理解されにくいため、neformat社では「татушка」(タトゥーシュカ)は「тату девушка」(タトゥー・ジェーヴシュカ、"tatu girl"の意)の略というより単純な説明をしている。
ТАТУというグループ名は、ロシア語の「Та любит ту」(ター・リュービト・トゥー、"This (girl) loves that (girl)"の意)の略だとされている。
t.A.T.u. ТАТУ、タトゥ、タトゥー メンバー
ユーリャヴォーカル:
リェーナ(エレーナ・セルゲーエヴナ・カーチナ) Елена Сергеевна Катина (Lena Katina)
1984年10月4日モスクワ生まれ
ユーリャ(ユーリヤ・オレーゴヴナ・ヴォルコヴァ) Юлия Олеговна Волкова (Julia Volkova)
1985年2月20日モスクワ生まれ
メイン・スポンサー:
ボリス・レンスキー (Борис Ренский)(現役) プロデューサー:
イワン・ニコラエヴィッチ・シャポヴァロフ (Иван Николаевич Шаповалов)(既に解雇) ボリス・レンスキー(メインスポンサー兼任) エレーナ・カーチナ(ヴォーカル兼任) ユーリヤ・ヴォルコヴァ(ヴォーカル兼任) 副プロデューサー:
エレーナ・ウラジーミロヴナ・キーペル (Елена Владимировна Кипер)(脱退) 1stアルバム英語版プロデューサー:
トレヴァー・ホーン (Trevor Horn)
作曲担当:
セルゲイ・ガロヤン (Сергей Галоян)(脱退・復帰) アレクサンドル・ヴォイチンスキー (Александр Войтинский)(脱退) イワン・シャポヴァロフ(脱退) R. リャプツェフ (Р. Рябцев)
E. クリツィン (Е. Курицын)
M. ラサル (M. Lasar)
L. アレクサンドロフスキー (L. Alexandrovski)
A. ポクートニ (A. Pokutni)
V. アダリチェフ (V. Adarichev)
作詞担当:
エレーナ・キーペル
ヴァレリー・ポリエンコ (Валерий Полиенко)(脱退・復帰) イワン・シャポヴァロフ(解雇) R. リャプツェフ
A. ヴルィフ (А. Вулых)
A. カサエヴァ (А. Касаева)
V. ステパンツォフ (В. Степанцов)
英語版作詞者:
トレヴァー・ホーン
マーティン・キールセンバウム (Martin Kierszenbaum)
コンサートマネージャー:
レオニード・ズュニク(脱退) オリガ・マトヴェーヴァ(現役) 広報担当マネージャー:
ベアタ・アルジェーエヴァ(事故のため退職) アレクサンドラ・チチャンコ (結婚退職
専属ダンサーズ:6名(解雇)
ヴォーカルにカーチャ・ネチャエヴァ(Катя Нечаева)(解雇)
頃もあった。
後、バックコーラスのひとりとしてTATYに参加した。発声が不安定となり、しばしばカーチャがパートを代わりに歌っていた。その後もシャポヴァロフはカーチャのソロデビューを構想していたので、カーチャも2003年の「天空」までТАТУと行動をともにしていた。脱退したユーリャとレーナを引き戻すためにレンスキーらスポンサーがシャポヴァロフを解任。カーチャは居場所を失い、結局ТАТУを去ることになった。カーチャとともに契約したエストニア人ドラマーとギタリストがいたが、「天空」以前にТАТУから離れている。 ゴードン・マシュー・サムナー(Gordon Matthew Sumner, STING)
1951年10月2日、イギリスのニューカッスル・アポン・タイン生まれ 英国ロックの大物スティングの本名。
1977年に、ポリスを結成、1978年にA&Mより「ロクサーヌ」でデビュー、1983年、活動休止。
1985年、スティングとしてのソロ活動を開始。
ТАТУのセカンドアルバム「デンジャラス・アンド・ムーヴィング」では、ベーシストとしてスポット参加。 リチャード・カーペンター(Richard Carpenter)
1946年10月15日、アメリカ生まれ カーペンターズにてボーカル、作曲、アレンジなどを担当していた。
セカンドアルバム「デンジャラス・アンド・ムーヴィング」では、「GOMENASAI」というストリングスアレンジを手掛けた。 デイヴ・スチュワート(David A. Stewart)
1952年9月9日、イギリス生まれ 元ユーリズミックス。
セカンドアルバム「デンジャラス・アンド・ムーヴィング」では、「Friend or Foe」という曲を手掛けた。アレクサンドル・ヴォイチンスキーとイワン・シャポヴァロフが子供バンド「ネポセディ(Непоседы)」を卒業したばかりのレーナ・セルゲーエヴナ・カーチナを見出したところからТАТУは始まった。
レーナの父セルゲイ・カーチン(Сергей Катин)は優れた作曲家で音楽プロデューサでもあり、ヴォイチンスキーとは面識があった。オーディションではレーナ・カーチナと「ネポセディ」で歌ってユーリャ・ヴァルコヴァも選ばれた。
その頃、ヴォイチンスキーはコソボ紛争における爆撃で首都ベオグラードに家族を失い、悲しみに打ちひしがれていた。
ヴォイチンスキーは不条理な戦争の悲しみや憤りを込めた「ユーゴスラビア(Югославия)」を作曲し、レーナ・カーチナに歌わせてデビューさせた。イワン・シャポヴァロフが当時恋人だったエレーナ・キーペルのコンセプトを利用してデュエットを提案した。ボリス・レンスキーを出資者として招きよせ、プロジェクトの財政を安定化した。作詞・作曲陣としては、セルゲイ・ガロヤン(作曲)、ヴァレリー・ポリエンコ(作詞)の二人を発掘。それまで無名な学生に過ぎなかったガロヤンとポリエンコは、才能を開花させた。「ТАТУ」に改称された。
エレーナ・キーペルは同性愛をコンセプトを得、シャポヴァロフがこれを採用した。
t.A.T.u. ТАТУ、タトゥ、タトゥー 2000年
2000年9月、エレーナ・キーペル作詞、セルゲイ・ガロヤン作曲による「ヤー・サシュラー・ス・ウマー(Я сошла с ума / 私はおかしくなった)」が一躍有名になった。
プロモーション・ビデオで、二人に同性愛の演技をさせ、これがセンセーションを巻き起こした。12月、シングル「ヤー・サシュラー・ス・ウマー」を発表。
t.A.T.u. ТАТУ、タトゥ、タトゥー 2001年
2001年、キーペルとガロヤンのコンビで「ナス・ニェ・ダゴニャット(Нас не догонят / 私たちはつかまらない)」がヒットし、アルバム「200・ポ・フストレーチノィ(200 ПО ВСТРЕЧНОЙ / (時速200キロで逆走)」(5月発表)がヒットした。
その存在が主に東欧各国でヒットチャートを駆け上っていった。
t.A.T.u. ТАТУ、タトゥ、タトゥー 2002年
2002年、トレヴァー・ホーンが編曲した英語版「200 KM/H IN THE WRONG LANE」がリリースされ、さらに「ヤ・サシュラ・ス・ウマ」の英語版「All the things she said」のプロモーション・ビデオがリメイクされた。
ТАТУのラテン文字表記は、従来はキリル文字をそのまま翻字した「TATU」だったが、存在していたため、「t.A.T.u.」に改名した。後半がТАТУ人気の絶頂であったと言える。
軋轢が生じていた。コンセプトは、演じているヴォーカルの二人にとっては強い抵抗があった。
最初にコンセプトを提供したエレーナ・キーペルに耐え難いものだった。ギャラ支払いの不明瞭さの問題もあった。シャポヴァロフは、入れ替えを画策したため、結局エレーナキーペルとセルゲイ・ガロヤンは脱退し、レーナ・カーチナとユーリャ・ヴォルコヴァは踏みとどまった。
ТАТУの経済的成功は2003年まで続くが、エレーナ・キーペルとセルゲイ・ガロヤンの脱退の影響は大きく、脱退後にリリースした曲は期待したほどヒットしたと言えなかった。
ユーロビジョン・ソング・コンテストでТАТУはロシア代表として参加した。
実際は、これ以前からユーリャ・ヴォルコヴァは喉の障害で十分な声が出なくなっており、2002年の12月に加入したカーチャ・ネチャエヴァがユーリャのパートを歌っていた(本番ではユーリャが歌った)。ТАТУ人気が日本に上陸したが、この頃にはシャポヴァロフの路線は完全に破綻していた。
ガロヤンの脱退後も踏みとどまっていたヴァレリー・ポリエンコもこの頃シャポヴァロフと絶縁し、ТАТУの成功を支えた主要な作詞・作曲者はなくなっていた。ガロヤンやヴォイチンスキーの曲に魅力があったからなのだが、シャポヴァロフは路線を過激化させていった。初アルバム『t.A.T.u.』は合計で200万枚が売れた。
シャポヴァロフは無茶苦茶な直前にキャンセルしたのをはじめ、各地で不条理なドタキャンを指示。
2003年6月27日、テレビ朝日のミュージックステーション出演を番組放送中にキャンセルし、騒動となった。などにより、人気は急速に低下した。ドタキャンをはじめとしたスキャンダラスな行動でファン離れが始まっていたТАТУにとって、日本では絶頂にいたこともあり、アーティストとして再起するチャンスであったが、結局日本でのドタキャン騒動が世界中に報道され話題となり、ТАТuの人気下落は加速する一方だった。
2003年12月にТАТУは再来日し、東京ドームでのコンサートを2日間実施したが、両日とも半数ほどが空席(公式発表によると、初日の動員数は25,029人だった)。
日、ユーリャ・ヴォルコヴァは体調を崩して出演できる状態ではなかったのだが、その歌唱力と表現力は集まったファンを納得させるものがあった。
絶賛以上に、従前の事件および事後報道が影響し、日本におけるТАТУブームは完全に失速したものとなった。シャポヴァロフはヴォーカル二人にキャンセルを指示してために、信頼関係は完全に失われた。
東京でレーナ・カーチナはТАТУからの脱退を示唆したが、踏みとどまった。
その後も、レーナ・カーチナ及びユーリャ・ヴォルコヴァのロシア大統領選出馬表明等、無軌道なスキャンダル路線を指示し続けるが、その一方でセカンドアルバムの製作も発表し、その製作模様はドキュメンタリーとしてテレビ放送されることになった。
t.A.T.u. ТАТУ、タトゥ、タトゥー 2004年
2003年12月にSTSテレビでドキュメンタリー「アナトミヤТАТУ」が放映されたのに続き、2004年1月〜3月テレビシリーズ「タトゥー・フ・パドネベースノィ(t.A.T.u. в Поднебесной / 天空のТАТУ)」が放映されるが、ТАТУ内部の軋轢と無軌道ぶりだった。
セカンドアルバムの製作は遅々として進まず、シャポヴァロフからはセカンドアルバムをより良いものにしようという気も、期日(放送最終日の3月14日)までに仕上げようという気も、感じられなかった。レーナ・カーチナとユーリャ・ヴォルコヴァにとってシャポヴァロフは、自分たちを世界的スターにしてくれた人物であり、何年も苦楽を共にしてきた親友でもあったが、この期に及んでもまともに活動をしようとしないシャポヴァロフを最終的に見限り、ついにシャポヴァロフに契約破棄を突きつける(2月)。シャポヴァロフはこの危機的状況を収拾しようともせず、番組もそのまま終了した。
その後の4月スポンサーたちはこの混乱の責任はシャポヴァロフにあるとして彼を解任した。
新プロデューサーには、エレーナ・キーペルに就任を依頼し、キーペル側も快諾したが、レーナ・カーチナ、ユーリャ・ヴォルコヴァらはキーペルの復活を望まず、結局メイン・スポンサーであったボリス・レンスキーが自ら暫定プロデューサーに就任することになる。解任後はドタキャン騒動は起きていない。
レンスキーは、権利についてТАТУ側と争ってエレーナ・キーペルと和解するとヴォーカルのレーナ・カーチナとユーリャ・ヴォルコヴァを呼び戻し、更にセルゲイ・ガロヤン、ヴァレリー・ポリエンコと再契約することに成功した。
ため仕事が出来なくなり、結局2004年の秋までТАТУは実働しなかった。トレヴァー・ホーン音楽活動25周年コンサートやベスラン学校占拠事件追悼コンサートなどで活動を再開している。
レーナ・カーチナの父で作曲家兼プロデューサーのセルゲイ・カーチンによればレーナのソロ活動も同時に行われることになるという。
作曲担当のセルゲイ・ガロヤンと広報マネージャーのアレクサンドラ・ティチャンコが結婚した。
ТАТУに落ち着くことになったガロヤンは、セカンドアルバム に曲を提供することになっている。
上に、ТАТУは音楽を取り戻しつつあるかのように思われる。
t.A.T.u. ТАТУ、タトゥ、タトゥー 2006年
2005年セカンドアルバムの英語版とロシア語版が年間最高アルバム賞を受賞した。
曲風はファーストアルバムより重厚に社会性が増した。アルバムタイトルとなった「廃人たち」も、現代の閉塞感への抵抗を秘めたものであることが明らかにされている。 最初期からТАТУはしばしば陰鬱な政治性を歌に込めているが、セカンドアルバムはそれが前面に出てきた。セカンドアルバムのテーマが告発にことを認めている。
再来日したТАТУは、東京・横浜・名古屋でミニライブをこなし、熱心なファンとの交流が図られた。地道な活動をおこなった。ライブハウスHOLIDAYで準備中、客の不入りを理由にライブハウスと管理会社が中止を決定し、日本のマスコミが「またドタキャン」と面白おかしく報道したが、実際はファンは次のライブ会場J.MAXに移動の便宜が混乱はなかった。 函館からユジノサハリンスクに移動したТАТУだったが、ここで契約解除となるはずだったバンドメンの契約更新が決まり、来年製作予定のサードアルバムまでТАТУは6人組で活動することになった。契約を解消したことから、独自レーベルを立ち上げるのか、様々な噂が飛び交っている。フィリップ・キルコーロフとアーラプガチョワが一時ТАТУの権利に関心があったことから、関係もささやかれている。
9月27日にはベストアルバム「THE BEST」が発売された。
全20曲を収録。一時期はボーナストラックが収録されるという 事になっていたが、結局インターナショナル盤と同じトラックリストとなった。これがリリースとなった。
t.A.T.u. ТАТУ、タトゥ、タトゥー 2007年
2007年リリース予定とされていた3rdアルバムは9月現在未だ発表されておらず、2008年にずれ込む可能性もある。
元々2006年10月にリリースされる予定であった「TRUTH 〜LIVE IN ST.PETERSBURG〜」のDVDがamazon限定で発売されることが決定している。公式サイトで延期が発表されたのち、リリースが2007年8月24日に公式サイトにて緊急発表された。リリースの運びになった。
ヴォーカルはレーナのみ。 Югославия / ユーゴスラビア(有線とラジオ放送のみ) Ельцин / エリツィン(不明) 2000年
「ТАТУ」に改称。
ヴォーカル二人制 Я сошла с ума / ヤー・サシュラー・ス・ウマー(シングル) ヤー・サシュラー・ス・ウマー(プロモーション・ビデオ) 2001年
Нас не догонят / ナス・ニェ・ダゴニャット(シングル) 200 по встречной / 200・ポ・フストレーチノイ(アルバム) ナス・ニェ・ダゴニャット(プロモーション・ビデオ) 30 минут / 30ミヌートゥ(プロモーション・ビデオ) 2002年
Not Gonna Get Us(ナス・ニェ・ダゴニャット英語版)をアメリカでリリース(シングル) All The Things She Said(ヤ・サシュラ・ス・ウマ 英語ヨーロッパ版)をドイツでリリース(シングル) 200・ポ・フストレーチノイ新装版(アルバム) 「t.A.T.u.」に改称 All the Things She Said(ヤー・サシュラ・ス・ウマ 英語アメリカ版)をアメリカでリリース(シングル) Простые движения / プラストィーイェ・ドヴィジェーニヤ(プロモーションビデオ) カーチャ加入。
2003年
Не верь, не бойся / ニ・ヴェーリ・ニ・ボイシャ(ユーロヴィジョン用プロモーション) ニ・ヴェーリ・ニ・ボイシャ(歌詞改訂版) ニ・ヴェーリ・ニ・ボイシャ(プロモーション・ビデオ) Ничья / ニチヤ(東京ドームコンサート用、2005年のアルバムに収録) 2004年
Белочка / ビェーラチカ
Защищаться очками / ザシシャーッツァ・アチカーミ(テレビ放映のみ) Всё нормально / フショー・ナルマーリナ(収録のみ) Ты согласна / トィ・サグラースナ(2005年のアルバムに収録) В космосе сквозняки / フ・コースマシェ・スクヴァズニャキー(収録のみ。歌詞のみ2005年のアルバム収録曲に使われる) 2005年
All About Usを日本で先行リリース。
全世界でリリース(シングル) Dangerous and Movingを日本で先行リリース、続いて全世界でリリース(アルバム) Люди-инвалиды / リュージ・インヴァリードィをロシアでリリース(アルバム) 2006年
THE BEST(初ベストアルバム) 2007年
DVD TRUTH 〜LIVE IN ST.PETERSBURG〜(amazon.co.jp限定版) DVD t.A.T.u.Expediton(未定) 2008年
Waste Management(3rdアルバム、発売日未定)
年代不明の曲(ボツ曲、デモ版、他の歌手の曲等) В твоих руках / フ・トヴァイーフ・ルカーフ
Мелодия любви / ミロージヤ・リュブヴィー
Лишь тебя / リーシュ・チビャー
Альфонс / アリフォーンス
Ты сошёл с ума(Я не глотаю) / トィ・サショール・ス・ウマー(ヤー・ニ・グラターユ) Одна / アドナー
Полчаса без любви / ポルチサー・ビズ・リュブヴィー
Заведи / ザヴェジー
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